渡来人2

出典: Jinkawiki

2009年1月13日 (火) 09:03 の版; 最新版を表示
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渡来人(とらいじん)とは、広義には、海外から日本に渡って来た人々を意味するが、狭義には、中国大陸から南西諸島・朝鮮半島などを経由して、古代日本に渡来帰化した人々を指す。日本地域には多くの渡来人が来ている。渡来の波は大きく4回あるといわれる。また、そのルーツに関しても、黄河流域~山東半島、揚子江流域、満州~朝鮮半島など様々で、渡来の規模とともに今なお議論の対象となっている。古代の日本には朝鮮半島から土器製作、農工技術、土木技術、養蚕、機織り、漢字、仏教、医学などの新しい文化や技術を持って多くの人たちが渡来してきた。渡来人から伝えられた技術や知識によって,それまでの人々の生活が大きく変化し,また,政治の中心地である都もつくられていった。(水稲)稲作に始まり、後には仏教や寺院建築技術などを日本に持ち込み、古代日本における文化・政権形成に大きな役割を演じたと考えられている。渡来時期を大きく4つに区分すると、以下のようになる。

Ⅰ 紀元前5~3世紀 弥生時代に日本に定住した。

Ⅱ 4~5世紀  倭の五王が治めていた時代であり、朝鮮半島からの渡来人が多い。

Ⅲ 5世紀末~6世紀  今来漢人(いまきのあやひと)が最新技術をもたらした。

Ⅳ 7世紀後半  百済・高句麗などから亡命してきた。


【第1の波 紀元前5世紀~3世紀】

第1の波は紀元前5世紀から始まる波である。中国では戦国時代(403-221)で、群雄割拠の時代を迎えていた。そのため中国から朝鮮半島に移る人が多く、さらにこれに押し出されるように朝鮮半島から日本に着た人々も多くいた。最初の渡来人たちは、日本(九州を中心として)に米作りや土器などを伝えた人たちと考えられる。製鉄の技術や鉄製の農具、灌漑(かんがい)技術などが伝えられた。彼らがもたらした稲作の技術や道具によって、日本はそれまでの縄文時代から農耕を中心の弥生時代に移行した。集落も稲作に適した平野の近くに作られるようになった。


【第2の波 4世紀~5世紀】

日本では応神・仁徳天皇など倭の五王の時代にあたる。この時期中国東北では、慕容氏が南下して、それに押されるように高句麗が朝鮮半島を南下しはじめ、新羅は高句麗の影響下に置かれた。それに押されるように日本にも渡来が増えた。この時期日本では大王はじめ各地の有力豪族は、領域内の経済的、文化的発展と政治的支配力の強化を図っていた。そのため渡来人の技術が必要とされた。4世紀後半になると、ヤマト政権は畿内から西日本へ勢力を拡大した。この中で、新羅との関係が深いとされる秦(はた)氏や、百済との関係の深い漢(あや)氏などはこの時期に渡来して、文筆や外交に携わった。彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち,日本の国づくりを根底で支えたと言える。また、馬や馬具ももたらされ、乗馬も行われるようになった。これらのうち漢氏の東文氏(やまとのあやうじ)の力が強くなる。

秦氏(はたし)は、4・5世紀ごろに朝鮮半島の新羅からきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族である。弓月君は127県の3万~4万人の人夫とともに九州に渡来した。土木技術や農業技術などに長けていた秦氏は、灌漑設備も整えて土地の開墾を進んで行った。また、養蚕、機織、酒造、金工などももたらした。大和王権(大和朝廷)のもとでは財政担当の役人として仕えていた。本拠地は始め京都山背にあったが、後に太秦(うずまさ:京都市)に移り住んだ。中央での活躍と共に,秦氏の子孫たちは尾張・美濃や備中・筑前に至るまで、全国規模で勢力を伸ばしていった。

東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)は、応神天皇の時代に、百済から17県の民とともに渡来して帰化した阿知使主(あちのおみ-阿智王)を祖とする氏族。東漢氏は、大和王権(大和朝廷)のもとで文書記録、外交、財政などを担当した。また、製鉄、機織や土器(須恵器:すえき)生産技術などももたらした。

西文氏(かわちのふみうじ)は、応神天皇の時代に渡来した王仁(わに)を祖とする集団である。古事記・日本書紀によると、王仁は日本に「論語」「千字文」を伝え、日本に文字をもたらしたとされる。西文氏は河内を本拠地として、文筆や出納などで朝廷に仕えていた。


【第3の波 5世紀末~6世紀】

雄略、継体、欽明天皇の時期に当たる。朝鮮では新羅が急速に台頭し、伽耶、百済と対立した。日本では、機内中心の古代国家の形成が本格化していた。支配体制の動揺を迎えつつ、新たな国家体制を作ろうとしたため、国家統治の技術として、渡来人の最新の知識や技術を必要とした。ゆえに、積極的に渡来人を受容した。

今来の才伎(いまきのてひと)と言われる人達により、王辰爾の後裔とされる一族(船氏、葛井、津氏)もこの時期に勢力を伸ばした。他にも綿織や綾織などの技術をもたらした錦織部、須恵器をもたらした陶作部などが相次いで渡来してきた。他にも百済から画部、手人部、鞍作部、衣縫部、韓鍛冶部、飼部などが渡来した。彼らは、交通の要衝で西文氏の地盤であった河内古市付近や、飛鳥近傍の東漢氏の地盤であった高市郡に配され、それまでに定着していた渡来人と一緒となって、他とは文化的に異なった地域を形成していった。


【6世紀の渡来人】

こうした渡来人の勢力を蘇我氏は接近した。そのため積極的に仏教を受容しようとした。欽明天皇の時代に、百済の聖(明)王が仏教・経論などを伝えた。(538年説、552説がある。) 百済から五経博士が渡来し、儒教を伝えたほか、易・暦・医博士なども渡来し進んだ学問を伝え、支配層に広まった。また仏教(北方仏教の系統)も西域・中国・朝鮮経由で日本に公式に伝えられ、大王や豪族に受容された。

6世紀の後半には、ヤマト政権と高句麗との交流が始まり(570)、高句麗を通じた文化流入が始まった。飛鳥寺では高麗尺を使った。高句麗の使節が日本に来たときに、警護したのは東漢氏であるが、彼らはそれ以外にも新羅征討計画(602)、壬申の乱で軍事力において大きな役割を果たした。さらに造仏造寺など土木工事にも活躍した。外交でも、外国の事情に明るい渡来人が利用され、漢氏系の高向玄理や南淵請安が派遣された。


【第4の波 7世紀後半】

新羅が伽耶を滅ぼしたことをきっかけに、ヤマト政権は新羅と関係を持つようになる。日本には百済や高句麗から多くの人が渡来した。奈良・平安時代には、漢氏系集団や秦氏はそれぞれの地域に土着化する。地方官人クラスとして、忌寸を称する帰化人集団が増えてきた。天武や持統朝になると、渡来人を関東などの遠隔地に配するようになる。これは、大宝律令以降(701)、外国使節の往来する道路の近くに外来人を置かないとすることと、遠隔地の開発が眼目にあった。この流れで上州には新羅系渡来人を中心とした多胡郡が置かれ(711)、武蔵国の未開の地には新羅人による新羅郡が置かれた(758)。彼らはそれらの地域で土着化していく。

このような流れの中で帰化氏族は始祖を中国に求め、8世紀に日本風の氏に改姓するものも増えた。全国的に名字が変えられ、一見渡来系とは分からない者も増えていった。この流れによって、日本の対外関係が希薄になることに合わせるように、9世紀に入ると渡来人と、日本側の人々との間に融合が起こり、「渡来人として」の姿は消えていくのである。


参考文献:詳説日本史B(山川出版社)、地図・資料・年表「新詳日本史」(浜島書店)、ウィキペディア

http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/toraijinrekisi.htm

http://www.jissensha.co.jp/opinion/20040925-1.htm


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