王政復古の大号令
出典: Jinkawiki
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王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)は、江戸時代末期の慶応3年12月9日(1868年1月3日)、明治天皇の名によって天皇親政が宣言された政変である。慶応3年10月14日(1967年11月9日)に将軍徳川慶喜が政権を返上(大政奉還)し、討幕の大義名分が失われたため、討幕派であった岩倉具視や大久保利通らが、討幕の大義名分を得るために決行したクーデターであった。その後討幕は成功し、明治維新が実現した。
内容
【王政復古の大号令】
徳川内府、従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退ノ両条、今般断然聞シメサレ候。抑癸丑以来未曾有ノ国難、先帝頻年宸襟ヲ悩マセラレ御次第、衆庶ノ知ル所ニ候。之ニ依リ叡慮ヲ決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基立テサセラレ候間、自今、摂関・幕府等廃絶、即今先仮ニ総裁・議定・参与ノ三職ヲ置レ、万機行ハセラルベシ。諸事神武創業ノ始ニ原キ、縉紳・武弁・堂上・地下ノ別無ク、至当ノ公議ヲ竭シ、天下ト休戚ヲ同ク遊バサルベキ叡慮ニ付、各勉励、旧来驕懦ノ汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国ノ誠ヲ以テ奉公致スベク候事。 (『復古記』)
口語訳
内大臣徳川慶喜がこれまで天皇から御委任されていた政権を返上し、将軍職を辞退したいという二つの申し出を、このたびきっぱりとお聞き入りになられた。それにしても、嘉永六(1853)年のペリー来航以来、いまだかつてなかった困難が続き、先の孝明天皇が毎年大御心を悩ませられていた事情は人々の知るところである。そこで明治天皇はお考えを決められて、王政復古、国威回復の御基本を確立されたので、今からは摂政・関白・幕府などを廃止し、直ちにまず仮に総裁・議定・参与の三職を置かれ、天下の政治を行われることになった。すべて神武天皇が始められたのにもとづき、公卿・武家・殿上人・一般の区別なく正当な論議をつくし、国民と喜びと悲しみをともにされるお考えなので、おのおの勉励し、従来のおごり怠けた悪習を洗い流し、忠義をつくして国に報いる誠の心をもって奉公するようにせよ。
つまり、
1.(慶応3年10月24日に徳川慶喜が申し出た)将軍職辞職を勅許。
2.京都守護職・京都所司代の廃止。
3.江戸幕府の廃止。
4.摂関制度(摂政・関白)の廃止。
5.新たに総裁、議定、参与の三職をおく。
というものである。
土佐藩からの建言もあって、第15代将軍徳川慶喜は慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還を上奏(翌15日に勅許)し、264年間に渡って江戸幕府(徳川将軍家)が保持していた政権を朝廷に返上した。しかし、徳川家は天皇の下で、引き続き実権を手にする事を想定していた。また、大政奉還に反対する会津藩、桑名藩や旧幕府勢力の強硬な幕府権力が奪い返す動きもあり、次の新政権に慶喜が擁立される可能性が高かった。それらを完全に排除するために、「王政復古の大号令」が出されたのである。
この宣言は、江戸幕府の廃絶と、天皇による新政府の成立を宣言するものであった。明治天皇は満15歳と若く、政治の実権は岩倉具視ら一部の公家と薩摩藩・長州藩が手していたが、形式上は天皇親政を宣言するものであった。王政に「復古」するといいながらも、伝統的な摂政・関白以下の朝廷の秩序を一新することで上級公家を排除し、徳川が新政府の主体となる芽をつみ、天皇親政の名の下、岩倉ら一部の公家と薩長が主導する新政府を成立・宣言する内容であった。 三職に任命されたのは以下の人物である。
総裁
有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや・たるひとしんのう)
議定(皇族・公卿・諸侯から10名)
仁和寺宮嘉彰親王、山階宮晃親王、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、島津忠義(薩摩少将)、徳川慶勝(尾張大納言)、浅野茂勲(安芸少将)、松平慶永(越前宰相)、山内豊信(土佐前少将)
参与(公卿・諸藩代表者20名)
岩倉具視、大原重徳、万里小路博房、長谷信篤、橋本実梁、尾張藩(3人)、越前藩(中根雪江ら3人)、芸州藩(辻将曹ら3人)、土佐藩(後藤象二郎ら3人)、薩摩藩(西郷、大久保ら3人
参考文献:詳説日本史B(山川出版社)、地図・資料・年表「新詳日本史」(浜島書店)、詳説日本史史料集(山川出版社)、ウィキペディア