白村江の戦い
出典: Jinkawiki
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白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いとは
663年(天智2)8月、倭国(後の日本)と百済の遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦い。唐・新羅連合軍の勝利に終わった。 大陸に超大国唐が出現し東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役で、その後の倭国(日本)にも大きく影響した。唐・新羅軍に首都の泗沘城(扶余ふよ)を落とされて滅亡した百済救援のために、朝鮮半島に赴いた日本の水軍が、錦江河口の白村江で唐の水軍に大敗した戦い。百済の復興はならず、日本は朝鮮半島の足場を失った。日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることが多い。中国・朝鮮側では「白江」と表記される。 白村江の戦いにおける倭国軍の敗退は、唐軍の圧倒的な物量に対する敗北であったといわれることが多い。ただし、倭国及び唐の水軍の規模と戦力について述べた史料をのせておく。倭国側と中国側とでは数が違う。
史料より
倭国側 「唐軍の諸将は兵船百七十艘を率いて白村江に布陣を完了した」 「日本書紀」より
中国側 「倭国水軍の船四百艘を焼き払った」 「旧唐書」劉仁軌伝より
交戦と指揮官と戦力
唐・新羅軍金法敏(文武王)・劉仁軌 唐軍 7,000人 唐船舶 170余隻 新羅軍 5,000人
倭国・百済遺民勢力阿倍比羅夫・扶余豊璋 (ふよほうしょう) 倭国軍 42,000人 倭国船舶 800余隻 百済軍 5,000人
背景
660年前半、当時、倭国と呼ばれていた日本は、朝鮮半島にあった百済という国の復興運動に対して大規模な軍事介入を行った。その結果、中国の唐帝国を敵に回して、戦うことになった。これを、百済の役または、百済救援戦争と呼ぶ。そして、この最終的な戦いとなったのが、白村江の戦いである。
戦い後
水城(みずき)や山城(やましろ)(朝鮮式山城)を築き、防人を配備させた。
影響
倭国は、百済滅亡で多くの百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。倭国は、唐の圧倒的な戦力とそれを支える完成した国家体制に惨敗したとされている。その影響で急速に国家体制が整備され、天智天皇のときには近江令をつくり、天武天皇のときは最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が進んだとされる。 701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、新国家の建設はひとまず完了した。以上のように、白村江の敗戦は、倭国内部の危機感を生み、日本という新しい国家の建設を結果としてもたらしたと考えられている。 なお、百済王の一族、豊璋王の弟・善光(または禅広)は朝廷から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。その後、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した功により、百済王敬福が従三位を授けられている。