日本国憲法の制定の歴史と基本原理
出典: Jinkawiki
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日本国憲法が制定される直接の原因はポツダム宣言の受諾であり、その根本精神はアメリカ人の草案に基づいていることは周知の事実である。新憲法制定は連合国軍総司令部(GHQ)の日本民主化政策の根底をなすものであり、この新制憲法は戦後半世紀以上たった今でも、一度の改正も、修正もされていないが、果たして、現在の世の中に即しているのだろうか。この日本国憲法の下で、日本は、国際社会の中で応分の地位を得て、応分の役割をこなせるのだろうか。 また、現在の日本の経済的繁栄にも貢献したのも事実である我が国の憲法が国民に誇りに思われていないはなぜであろうか。その成立過程に原因が潜んでいるのではないか。GHQの指示により時の幣原内閣は、1945年、明治憲法改正のために「憲法調査委員会」を設け、国務大臣松本蒸治を委員長に任命した。1946年GHQに提出された松本案( 憲法改正要綱 )は天皇陛下の統治権を残そうとするものだとして拒否された。GHQは自ら作成した改正原案(マッカ-サ-草案)を日本国政府に示し、これを最大限考慮して新憲法を作ることを要求した。GHQの要求の要点は、「天皇陛下の象徴性と人民主権」を定めた第一条及び「戦争放棄」を定めた第九条であり、この二点を日本政府が受け入れない場合には天皇陛下の安泰を保証できない旨強調した。現にオ-ストラリア、ニュ-ジ-ランドは天皇陛下を戦争犯罪人名簿に含めGHQに提出したのも事実である。天皇主権 (天皇陛下が統治権を総攬すること) に固執する事が、事実上不可能である事を悟り、せめて我が皇室の安泰を願い、天皇陛下を戦争犯罪人にすることだけは回避したかったのである。続く吉田内閣はこのGHQ原案を基に作り直した改正案(日本政府草案)を「日本国憲法」として同年11月3日公布し、1947年5月3日より施行した。 以上の制定過程を見ればわかるように、新憲法制定という一国の一大事業が全国民の議論を待たずして性急におこなわれてしまった。その性急さとは、要するに民衆が敗戦の空しさ、虚脱感から立ち直り、やがて、自分たちの手で国民生活、社会、政治のありかたを決める憲法制定の機運が高まる前に、ということだ。国民の要求が、天皇制の全面的な廃止に向かうのか、もしくは、天皇統治権の続投か、あるいは社会主義に向かうのか、GHQにも、また日本政府にもわからないままだったのではないか。日本の社会主義化は当然アメリカの望むところではないし、天皇陛下を日本統治の手段として上手く利用したかったGHQには、天皇陛下の身分が不安定なことも避けたかった。このあたりに、日本国民の自発性による変革を阻止し憲法問題に早急に決着をつけたかったGHQの事情が伺える。 実際、現行憲法の雛形となっているマッカ-サ-草案は彼の腹心、ホイットニ-率いるGHQ民政局によって、僅か6日間で完成し、その2週間後の1946年3月2日には最初の日本政府案が作成された。その後たった2日間の討議を経て、3月5日には「日本政府草案」ができあがり、3月7日には即刻全国に向けて発表された。余談になるが、8月の衆議院での上記草案の採決では、421票の賛成に対し8票の反対票がでた。その内の6票が共産党で、皇室の廃止、日本の自衛権を要求してのことであった。
参考文献:『図解雑学 憲法』 後藤光男 著 ナツメ社
『憲法の本』 浦部法穂 著
wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist3_7.htm