印旛沼

出典: Jinkawiki

2009年1月19日 (月) 13:16 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

目次

印旛沼とは

印旛沼(いんばぬま)は、千葉県北西部、八千代市、佐倉市、成田市、印旛郡酒々井町、栄町、印旛村、本埜村にまたがる湖沼。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼をいう。 印旛沼は、下総台地の浸食谷の出口に利根川の流れとともに運ばれてきた土砂でせき止められてできた天然淡水湖。その治水は苦難の歴史であり、沿岸の村々は多年にわたる洪水の被害に苦しんだ。 干拓事業は江戸中期から始まったが、その都度失敗に終わった。戦後、国営事業として本格的に着手し、昭和44年に工事が完了した。

現在、沼は北印旛沼(6.26km2)と西印旛沼(5.29km2)に2分され、両沼は捷水路(しょうすいろ)で結ばれている。水深は平均で1.7m(最大水深:2.5m)と浅い天然淡水湖だ。沼の容積は全体で2,770万トン(東京ドームの約25倍)、面積は11.55km2(東京ディズニーランドの約25倍)。流域は11市2町2村にわたり、その面積は千葉県全面積の約10%に相当する約490km2である。


印旛沼・歴史

・江戸期における開発工事

江戸時代の印旛沼開発工事は、基本的には印旛沼の西端にあたる下総国平戸村(現・八千代市平戸)から検見川村(現・千葉市花見川区検見川)の海岸までを水路で結び、印旛沼の水を江戸湾(東京湾)に導水して落とし、水害防止と、新田開発あるいは舟運の整備を図ろうとするもので、「落掘り」とか、「掘割工事」といわれ、江戸期においてはほぼ60年置きに大規模な工事が計3回行われた。しかし、これらのいずれの工事も、以下に述べるように、ことごとく失敗に終わっている。

①享保の掘割工事 享保9年(1724年)に下総国平戸村(現・八千代市平戸)の名主・染谷源右衛門ら数人は、印旛沼の洪水被害の防止と新田開発を目的に平戸村から江戸湾の検見川村(現千葉市花見区検見川)までの約4里14町(約17km)を掘割※3する工事計画(要するに、平戸川と花見川を結ぶ工事)を幕府(八代将軍・吉宗)に願いでて、工事は「村請負(村普請ともいう)※4」で行うものとして許可を得るとともに、6,000両の資金が与えられた。 しかし、工事は資金調達が不十分のまま開始されたこと、また工事2年後に花島観音周辺(現・千葉市花見川区花島町)の“ケト※5”と称される軟弱泥からなる土層の掘削工事が難儀をきたしたことに加え、源右衛門および請負人たち78名が破産したため中止されてしまった。

②天明の堀割工事  安永9年(1780)8月、印旛郡惣深新田(現在の印西市草深)の名主・平左衛門と千葉郡島田村(現在の八千代市島田)の名主・治郎兵衛は幕府の依頼を受け、享保の堀割工事と同じ経路を辿る堀割工事と、利根川の氾濫によってもたらされる印旛沼の水害を防ぐため、印旛沼と利根川を結ぶ長門川に3つの扉(水門)で締め切る工事の目論見書を提出した。  これを受け、徳川10代将軍・家治の下で老中・田沼主殿頭意次は印旛沼開墾を天明2年7月から本工事に着手した。この工事は平戸村から検見川浜までの直線距離で約17.4km(幅:36m)を堀割りし、その沿村に新田を開発することで、その排水受益地区は144村におよぶ雄大な計画であった。実際、作業も3分の2ほど捗ったが、不運にも天明6年(1786年)7月12~18日、関東一円にわたって降り注いだ大豪雨によって利根川が江戸幕府開府以来の最大級の氾濫を起こし、またこれにともない天明3年に噴火した浅間山の火山灰が堆積した利根川の濁水で印旛沼も被われ、開削工事の諸施設はことごとく壊滅してしまった。  しかし、江戸幕府は江戸の復旧の見通しが立った時点において再度、工事に着工する計画であったが、同年8月20日に将軍家治が死去したことから8月24日には工事が中止、また8月27日には田沼意次の老中罷免が決定されとことによって、天明の印旛沼開削工事は完全に夢と終わってしまった。

③天保の堀割工事  天明から天保にかけては、国内全体にわたり噴火、洪水、冷害、干害と、天災が続き、飢饉によって多くの餓死者がでていた。このような社会情勢の中で、徳川将軍家慶を支え、老中首座となった水野越前守忠邦は「天保の改革」という統制令を発し、並行して天保14年(1843年)7月23日に洪水氾濫の防止対策に加え、経済的・軍事的に配慮をした水運(船運)の整備に重点を置く印旛沼開削工事に着手した。特に、この工事における特徴は、享保および天明の堀割工事と同じ経路を以下に示す5工区に分割し、大名5藩に「手伝い普請※6」として労働奉仕を命じたことである。


印旛沼・水生動物

印旛沼は、かつて水生植物の宝庫といわれ、沼周辺の農家は昭和22年頃まで、夏季の農閑期に畑の肥料として利用するため沈水植物(主としてコウガイモ、ホサキノフサモ、センニンモ、マツモなど)を採取、いわゆる「モク取り」が行われていた。実際、当時の印旛沼では、水生植物の種類が「印旛沼開発事業」、要するに干拓前までは、第5.1表および第5.2表に示すように(出典:環境省水環境部「平成13年度印旛沼水質改善手法検討調査」平成14年3月)、西印旛沼と北印旛沼のそれぞれで45種(うち沈水植物19種)、44種(うち沈水植物9種)が観察されていた。 「開発事業」完成後は、干拓による水面積の減少と沼の2分化、そして水質汚濁の悪化によって大きく変化した。まず、開発事業完成の8年後における昭和52年(1977年)での調査結果では、沈水植物は北沼で14種と、さほど変化がみられなかったが、西沼ではすでに8種を数えるにすぎなかった。しかし、その5年後の昭和57年(1982年)における調査結果では、北沼でも沈水植物が8種、西沼ではさらに減じて4種となった。また、昭和59年(1984年)には、西沼では浮葉植物や沈水植物が生育できない状態にまでなり、代わってこの年の夏季には漁船が操業できないほどオニビシが繁茂、また翌年の昭和60年(1985年)には北沼にもオニビシが繁茂した。そして昭和61年(1986年)には西沼および北沼とも、水面の80%以上がオニビシに覆われる状況を示したことから、県は昭和62年(1987年)から平成6年(1994年)までの9年間、ヒシの刈り取り事業を行ったが、同時に北沼の沈水植物と浮葉植物は皆無になってしまった。


印旛沼・利用

印旛沼は、周囲の農業用水、京葉工業地域への工業用水、千葉市・習志野市・船橋市の飲料用水として供給されているほか、内水面漁業も行われ、コイやフナなどが漁獲されている。


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成