十七条憲法
出典: Jinkawiki
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日本における初めての憲法である十七条について調べた。 聖徳太子は、604年4月3日、一部の臣下(けらい)を建設中の斑鳩宮に集め、草案中の17条からなる憲法の草案を示した。日本最初の成文法の誕生である。
その内容は、近代国家の基本法としての憲法というよりは、天皇中心の国家体制を前提とした臣下、つまり天皇の使える貴族(中央豪族)や官吏に対する君・臣・民の上下秩序を前提とした守るべき道徳的規範(ルール=新たな心得)を新たに諭(さと) した(示した)ものであり、その根底に流れる思想は、外来の仏教、つまり、儒家・法家・道家の思想である。 それは、第2条「篤(あつ)く三寶(さんぽう)を敬(いやま)へ。三寶とは仏法僧(ほとけのりほうし/ぶっぽうそう)なり」と第10条「我(わ)れ必ずしも聖(ひじり/聖人・賢人)に非(あら)ず。彼(あ)れ(事物や人を指し示す)必ずしも愚(おろか/愚者〔ぐしゃ〕)に非ず。共(とも)に是(こ)れ(話や文章の中で、直前に取り上げられた人物や事物をさす言葉)凡夫(ただひと/ぼんふ/凡人/愚かな人/普通の人)のみ」に顕著に表現されている。 当時中国では、強大な権力を把握した随(ずい)が出現していた。それゆえ、実質的に天皇に代わって国を統治していた聖徳太子は、日本独立を維持する(随の属国にならない)ために、国の基盤を早急に整備する必要性に迫られていたという政治的背景があった。そこで聖徳太子は、推古天皇や聖徳太子および大臣(おおおみ)蘇我馬子(そがのうまこ)らを中心とした天皇制国家の確立を目指したわけである。 その基礎構造として、第1条は「和(わ)をもって貴(とうと)しとす。逆(さか)らうこと無(な)きを旨(むね)とすべし」と宣言し、天皇を中心にまとまるために、コミュニケーションを大切にした上で、独断を禁じ、衆議(しゅうぎ=多人数で評議・相談すること)を重んじる会議原則を示し、最終的には天皇(目の上のひと)に逆らうことをいさめたのである。 第3条では、君臣(くんしん)関係を天地にたとえ、大王(だいおう/おおきみ/天皇)の詔(みことのり=天皇の命令)を受けたなら必ず謹(つつし)む(かしこまった態度をとる)こと、第12条では、日本の人民はすべて大王を主と仰ぎ、国司(くにし=諸國の政務を管掌した地方官)、国造(くにのみやつこ=地方首長の身分の称)は大王の臣下であるので、人民に対して不当な中間搾取(徴税)をしてはならない、また第5・6・16条では、儒教的な君主の理想に基づく人民への慈愛の姿勢を強調している。 その歴史的意義は、7世紀後半からの天皇制律令国家形成や後世の武家社会、すなわち、源頼朝以来の行政や訴訟などに関するそれまでの慣習法や判例・先例を条文化した鎌倉幕府の基本法典を意味した51カ条からなる武家最初の成文法となった御成敗式目 (ごせいばいしきもく。貞永〔じょうえい〕式目とも)や足利尊氏(あしかがたかうじ)が示した17か条からなる室町幕府の政治要綱である建武(けんむ)式目などに影響を与えたことである。
参考文献:『聖徳太子と憲法十七条』 1982年 花山信勝 著 大蔵出版
www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/jyuuhitijyoukennpou.htm