寛政の改革

出典: Jinkawiki

2009年1月20日 (火) 21:05 の版; 最新版を表示
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 吉宗の政治を目標とした寛政の改革 

1787年に白河藩主から老中になった松平定信は、田沼の政治を批判、祖父・吉宗による享保の改革を目標として、寛政の改革に乗り出した。都市の治安維持のために、前科者などに職業訓練を行う更生施設(人足寄場)をつくったり、武士の借金を帳消しにする「棄捐令」を出したりした。また、各地に社倉・義倉を建てて、米などを蓄えさせる囲米の制や出稼ぎを制限して農村復興に着手したほか、正業を持たない者に旅費を与えて農村へ帰ることを奨励した旧里帰農令の発布や町入用の節約分の70%を積み立てさせた七分積立の制度化など都市政策も積極的におこなった。また、洒落本の山東京伝や黄表紙の恋川春町の弾圧をはじめ、男女混浴の禁止などによって民衆統制政策を打っていく。それから、朱子学以外の学問を異学とした寛政異学の禁を出し、思想統制もおこなった。寛政の改革は、享保の改革を規範とする復古的理想主義の政治によって幕府財政の立て直しとともに、天明の飢饉で荒廃した農村の復興を目指した。しかし、厳しい制約や倹約は逆に民衆の反感を買う結果となってしまう。天保の改革もまた、復古的理想主義の政治を掲げたが、いずれも失敗に終わっている。天保の改革の上知令のように、幕府が出した政策があっという間に撤回されるというのは、家康や家光の頃には考えられないことであり、まさに政権末期の状態といえる。


参考文献:「まるわかり日本史」 須藤公博著 永岡書店 ・ 「らくらく入門塾 日本史講義」 小和田哲男著 ナツメ社


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