天保の改革
出典: Jinkawiki
天保の改革は、1841年、老中 水野忠邦によって行われた。これは成功しなかったが、寛政の改革より一段と統制色の強いものであった。農村を復興させるために、江戸に流入した農民を村に帰した。また、幕府の権威回復と財政再建のために、江戸や大阪近辺の領地を幕府の直轄地にしようとしたが、大名たちの猛反対によって失敗に終わった。また、物価を引き下げるために株仲間の解散を実施したが、これは物価の乱高下を招いてしまう。一方、風俗の取り締まりには拍車がかかり、人情本の為永春水や合巻の柳亭種彦らを弾圧する。また、江戸・大坂周辺を幕府領にしようとした上知令も諸大名や旗本の反対によって実現不可能。この結果、忠邦は、たった3年で失脚した。
参考文献:「まるわかり日本史」 須藤公博著 永岡書店 ・ 「らくらく入門塾 日本史講義」 小和田哲男著 ナツメ社