宮澤喜一

出典: Jinkawiki

2009年1月23日 (金) 12:21 の版; 最新版を表示
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プロフィール

生年月日 大正8年10月8日(78歳) 本籍地 広島県福山市

山下汽船に勤めていた宮澤裕・こと夫妻の長男として東京に生まれる。本籍地は広島県福山市。母・ことは司法大臣、鉄道大臣等をつとめた小川平吉の二女。東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、旧制武蔵高校を経て東京帝国大学法学部政治学科卒業。在学中の1939年、日米学生会議に参加のため渡米した。

東大法学部卒業後、大蔵省入省。池田勇人蔵相、通産省秘書官などを務め、昭和28年より参議院議員(2期)、この間戦後の主要な日米会談に参加。昭和42年より衆議院議員(当選11回)。経済企画庁長官、通産大臣、外務大臣、大蔵大臣、副総理などを歴任し、平成3年11月から5年7月まで内閣総理大臣。卓越した語学力とともに、政策通として知られる。 総理経験者としては異例だが、経済再生のために、小渕総理に三顧の礼をもって大蔵大臣に迎えられた。

政界引退後2003年総選挙の際、小泉自民党は、議員定年制導入と「世代交代、若返り」という選挙運動方針を定め、それに則って中曾根・宮澤両元首相に対して、総選挙への立候補断念及び代議士引退を要請した。宮澤はこれを受け、代議士を引退することを決め、自らの地盤を甥の宮澤洋一に譲り、後事を託した。

宮澤自身は政界引退後も元首相、戦後政治の証言者として経済や安全保障のご意見番となり、様々な形で活躍していた。

2005年夏に体調を崩し、入院をした。退院後は容貌が一変するほどに痩せ、周囲を心配させたが、その後も活発にテレビ出演などを続けてきた。2006年7月に自宅で転倒して足を骨折して以降、表立った活動を控えていたが、翌2007年2月の政界関係者の会合には車椅子姿で参加。スピーチも行うなど元気な姿を見せたが、これが公の場に姿を見せた最後となった。

2007年6月28日午後1時16分、老衰のため東京都渋谷区神宮前の私邸で死去。87歳だった。遺族は本人の意向により勲章等は辞退した。

2007年8月28日に、安倍晋三総理大臣を葬儀委員長として、内閣・自由民主党合同葬が日本武道館で行われた。



宮沢内閣

宮沢内閣(1991年11月~1993年8月)

1991年10日の自民党総裁選挙では、宮沢喜一が竹下派の支持で当選し,首相に就任した。宮沢内閣は、カンボジアでのPKO活動の必要性が急浮上していたこともあって.廃案になった国連平和協力法案に代わるものとして国際平和協力法案を成立させた。

しかし竹下派会長の自民党副総裁金丸信が.東京佐川急便からの5億円献金問題と暴力団との関係を追及されて副総裁、議員を辞職したのをきっかけに竹下派が小沢一郎を中心とする羽田派と小渕派に分裂。野党が提出した内閣不信任案に羽田派などが賛成して可決され,宮沢首相は衆議院を解散した。不信任案に賛成した自民党議員らは離党し,羽田派は新生党を,武村正義らは新党さきがけを結成。総選挙で自民党は過半数を大きく割り込み,宮沢首相は退陣した。

この選挙では社会党も大敗し,東西冷戦を背景とした「保革対立」図式の上に成り立つ「55年体制」は終焉。


人物像

宮澤の英語力は「政界随一」と謳われた。しかし宮澤に海外留学や英語の専門教育を受けた経験などはなく、その英語はひとえに宮澤本人の努力の賜物だった。宮澤の英語に賭ける情熱に関しては、学生時代に辞書を丸暗記したとか、単語を覚えたページは破って食べたなど、さまざまな伝説がある。宮澤本人によると、東大時代に日米学生会議の日本代表の一人に選ばれて渡米したところ、それまで勉強してきた英語がほとんど使い物にならないことが分り、そこで一念発起して本格的に英語の勉強を独学で始めることにしたのだという。日中戦争から第二次世界大戦中にかけて、英語が「敵性語」として一般には排斥されていた時代にも、手に入る洋書や英字誌は片っ端から読むようにした。戦後の占領が始まると、GHQとの交渉ができる大蔵官僚として引っ張りだこになり、それこそ毎日のように英語を使う日々が続いたという。


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