ペスタロッチ

出典: Jinkawiki

2009年1月23日 (金) 12:50 の版; 最新版を表示
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プロフィール

スイスの教育家、教育思想家。チューリヒに生まれる。学生時代にフランスの哲学者ルソーの影響をうけ政治や法律への関心をもつが、やがて農業へのりだす。結婚後、農家の貧児や浮浪児をあつめて学校をはじめるが、経済的な理由で5年で閉鎖する。つづく20年間は著作活動を通じて、彼の教育理論を形成する。この時期の著作、「隠者の夕暮」(1780)は人間と教育についての考察であり、「リーンハルトとゲルトルート」(1781)はかしこい母の知恵が、村の子供たちをよくし、やがては村々や国全体をもよくしていく過程をえがいた教育小説である。


1798年、長年考察してきた教育理論を実践する場をえた。フランス軍との戦争で、家や両親をうしなった孤児たちの教育である。彼はそれをシュタンツの修道院ではじめ、献身的に活動したが、まもなく閉鎖された。後援者をえて、1801年にブルクドルフの古城に学校をひらき、ヨーロッパにおける教育実験の中心地として注目されたが、この学校も3年半で閉鎖され、その後05年にはイベルドンにまねかれて学校をひらいた。この時期、彼の教育の技術は円熟し、名声は絶頂に達した。イベルドンの学校は20年にわたり世界へ大きな影響をあたえた。ここで生徒は書物よりも、実地と観察を通じて、生徒たちの諸資質の自然的発達をうながすようおしえられた。この学校は弟子たちの仲たがいなどの理由で、25年に閉鎖される。その後も彼は教育への情熱をうしなわなかったが、27年ブルック近郊の村で81年の生涯をとじた。


教育思想

彼の思想と活動の特色は、子供の自発活動を通しての諸能力の調和的発展を普遍的な人間教育の原理として掲げ、かつその思想を身をもって貫いたところにあった。これが、その後の近代国民教育の発展にあたって、教師たちの精神的支柱として作用した。ドイツでは、フィヒテ、ヘルバルト、フレーベルらが、フランスではメーヌ・ド・ビラン、イギリス、アメリカではクリュージー、シェルドンらがその思想を媒介した。日本では当初、アメリカに留学した高嶺(たかみね)秀夫、伊沢修二らによって明治10年代に紹介されたが、やがて沢柳(さわやなぎ)政太郎らの努力によって、とくに大正新教育の時代を中心に、初等教育の展開を促進するうえに強い影響を及ぼした。


ペスタロッチの最期

ペスタロッチは1826年、人生の最期のときを、彼がそこから人生を歩みだしたその地、ノイホーフで迎えた。82歳だった。ペスタロッチは死ぬまで貧しい子どもたちのことを考えていた。貧しい子どもたちは働く手段をもっていない。どこまでも貧しいままである。でも学校に行って勉強をして、いろいろな知識と能力を身につけたら、何か人の役に立つ人間になれる。ペスタロッチは子どもたちが自分が有用な価値のある人間だということに気づき、安らぎのある人生を送ることができるようにしてやりたいと心から願って学校を創った。

ペスタロッチーのお墓には彼の人生をよく表すことば、「すべてを他人(ひと)のためにし、おのれには何ものも求めず」ということばが書かれている。


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