ノート:スピノザ

出典: Jinkawiki

2009年1月23日 (金) 13:47 の版; 最新版を表示
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バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza, 1632年11月24日 - 1677年2月21日)はオランダの哲学者、神学者。一般には、そのラテン語化ベネディクトゥス・スピノザ (Benedictus De Spinoza) で知られる。デカルト、ライプニッツと並ぶ合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、ドイツ観念論やフランス現代思想へ強大な影響を与えた。


生涯

ユダヤ教団の学校でヘブライ語と聖典を学び、カバラの神秘思想にも接したが、卒業後は医師ファン・デン・エンデンに就いてラテン語、自然学、幾何学およびデカルト新哲学を学び、しだいに異端的な西欧思想に傾斜していった。父の死後(1654)、彼はその後を継いで商人となっていたが、1656年3月、23歳のとき、「悪い意見と行動」のゆえにユダヤ教団から破門の宣告を受け、ユダヤ人社会から追放された。その後、オランダ各地を転々として学問研究に専念。『短論文』や『知性改善論』を執筆し、『デカルトの哲学原理』(1663)を出版した。

スピノザには「レンズ磨きを生活の糧(かて)とし、余暇はひたすら思索に没頭した」という伝説がある。しかし、たとえ孤独で簡素な生活を愛したとしても、スピノザは実際には当時の社会から孤立していたのでも、また極貧にあえいでいたのでもなかった。1672年ルイ14世のオランダ侵略に際して、オランダの専制君主たろうとするオラニエ公ウィレム3世と政治的に対立していた共和派の指導者ヤン・デ・ウィットは、扇動された暴徒によって虐殺された。このときスピノザはデ・ウィットの横死を激しく嘆き悲しんだという。『神学政治論』(1670)が匿名で刊行されたのは、このような社会的背景においてである。この著作は神学者の不寛容に対して思想の自由を擁護し、この目的のために政治的権力の宗教的権威からの独立を要求したが、たとえば「モーセ五書」がモーセ自身の手になることを否定し、後世の編集によると主張したために、涜神(とくしん)の書として神学者たちの厳しい非難を浴びた。そのため、15年の歳月を費やして完成された主著『エチカ』(1675成立)を、生前に刊行することが不可能になったばかりでなく、スピノザ哲学そのものが死後100年もの間、「死せる犬」のように葬り去られることになった。

スピノザは1673年、ハイデルベルク大学の哲学教授として招聘(しょうへい)されたが、教育と研究とは両立しがたいという理由により、また、彼自身の哲学する自由が制限されるのを危惧(きぐ)してこれを固辞し、『国家論』(1675)を最後の著作として、77年2月20日ハーグで没した。44歳であった。


思想

①実態

「実体とはその存在のため他のものを必要としないものである」、というデカルトの実体概念からスピノザは出発する。スピノザによれば、しかし、実体の概念をこのように考えるとき、実体はただ一つしか存在することができない。自分自身によってのみ存在するものは、必然的に無限であり、他のものによって制約されたり制限されたりしていない。多くの無限というものは存在し得ない(もし存在すれば、全く区別されないであろう)。したがって、デカルトがまだ想定していたような、多くの実体ということは必然的に矛盾である。ただ一つの実体、しかも一つの絶対的に無限の実体しかありえない。この実体をスピノザは神と呼んでいる。


②様態

個物は、思考という属性のもとに考察すれば観念であり、広がりという属性のもとで見れば物体であるが、スピノザはこれを偶有性の概念、彼の言葉を用いれば「様態」の概念によって捉えている。様態とはしたがって、実体という普遍的存在が特殊化する個別的な存在様態である。様態は、たえず消滅して少しも恒存しない形態として、その実体への関係は、海に立つさざ波の海の水への関係に似ている。有限なものはそれ自身のうちに独立の存在を持たない。


③実践哲学

その諸原則はスピノザの形而上学の根本観念から必然的に生まれてくる。第一に生じるのは、人々が「意思の自由」と呼んでいるものの否定である。というのは、人間は様態の一つに過ぎないから、人間もその他の様態と同じく、制約する原因の果てしない系列のうちに立っており、従って人間に自由意志を帰することはできないからである。…人間が自分を自由と思い込むのは、自分の行いを知ってはいるが、それを決定する原因を知らないからに過ぎない。  同じように、人が普通「善い」とか「悪い」とかいう言葉を結びつけている諸観念は、誤謬に基づいている…。善や悪は事物そのもののうちにある現実的なものではなく、我々が事物を互いに比較して作る相対的な概念に過ぎない。我々は…ある個物がこの概念に反すると、それはその本質にかなっていず、不完全であると考える。しかし何事も神の意志に反しては起こらないのだから、悪や罪は相対的なものであって、積極的なものではないのである。それは単なる否定や欠如に過ぎず、我々では(真の意味での)善悪とは何か。善とは我々に有用なものであり、悪とは我々に善に与ることを妨げるものである。有用とは、我々の存在性を増すもの、我々の存在を維持し高めるものである。しかし我々の真の存在は認識であり、認識は我々の精神の本質である。認識のみが我々を自由にするもの、すなわち、外界の事物が我々を妨害しようとする影響力に抵抗し、理性的に我々の存在を維持し促進する法則に従って行動し、全ての事物に対して我々の本性にふさわしい態度をとる、原動力と力を我々に与えるものである。従って認識に役立つもののみが有益である。最高の認識は神の認識であり、精神の最高の徳は、神を認識しかつ愛することである。神を認識することから精神の最高の歓喜、最高の幸福が生じる。それは我々に万物の永遠の必然性の思想のうちに平安を見出させ、我々をあらゆる不和と不満から、我々の存在の有限性との空しい戦いから解放する。の表象においてのみ何ものかであるように見えるに過ぎない。


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