竹崎季長
出典: Jinkawiki
2009年1月24日 (土) 11:06 の版; 最新版を表示
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竹崎季長とは、寛元4年(1246年)から、正和3年(1314年)頃、鎌倉時代中期に活躍した九州の御家人である。別名を、五郎、または兵衛尉という。元寇における蒙古襲来絵詞を描かせた武将として有名である。 肥後国竹崎郷、今の熊本県宇城市松橋町の出身で、菊池氏の一族だったが、同族内の争いによって没落。 文永の役では、博多において箱崎の少弐景資の軍に参陣する。合戦では、景資の許しを得て5名の郎党とともに赤坂へ赴く。赤崎では既に菊池武房が蒙古兵を討ち取っていたが、武房は少弐氏の指揮下ではなく、季長は戦傷を負いながらも武功を立てる。しかし季長の武功は、負傷したのみであり戦功とは認められなかった、あるいは事務的な手違いで報告されておらず、恩賞も与えられなかったと言われている。季長はこれを不服として、建治元年(1275年)6月に馬などを処分して旅費を調達し、鎌倉へ赴いて幕府に直訴する。同年8月には恩賞奉行である安達泰盛との面会を果たし、恩賞地として肥後国海東郷の地頭に任じられる。弘安の役では安達盛宗のもと、志賀島や壱岐の海戦で活躍、多大な恩賞を得たと言われている。戦後、自らの武功などを中心に蒙古襲来絵詞を描かせて甲佐大明神に奉納する。そして、正応6年(1293年)、菩提寺を建立して出家する。正和3年(1314年)に死去。享年は69歳。熊本県宇城市の塔福寺に葬られたと言われている.