慶安の御触書
出典: Jinkawiki
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1649年3代将軍徳川家光のときに、江戸幕府が農民の生活を統制する為に公布したもの。全32箇条からなる。年貢の確保を目的に出された為、日常の労働や暮らしまでにこまごまとした制限が示されている。 触書とは、老中が将軍の決裁を受け目付・三奉行などを通じ広く一般に配布・伝達した法令のこと。
内容
32箇条ある条文の中、以下のようなものがある。
一、百姓は、幕府の法令を守らなかったり、領主や代官をおろそかに思ったりしてはいけない。特にまた、村役人の名主・組頭を本当の親と思って、そのいうことを聞かなければならない。
一、百姓は衣類に麻布・木綿以外は、帯・着物の裏にも使ってはならない。
一、百姓は、男は農作にはげみ、女房はおはたに精をだし、夜も仕事をし、夫婦ともにかせげ。したがって、顔・姿のよい女房でも、夫のことを馬鹿にし、茶ばかり飲んで井戸端会議をし、寺社まいりや遊びすぎな女房は離婚せよ。
この他にも、日常の食事は米はまれで、麦・粟・稗などの雑穀が主食とされることが多く、住居も萱やわら葺きの粗末な家屋で、衣食住の全てにわたって貧しい生活を強いられた。
偽文書であるという見解
江戸時代においては慶安の御触書とはメジャーな資料である。しかし、いまだかつて日本全国のどこからも、発令された慶安2年当時の現物が発見されていないので偽文書ではないかという見解をする者もいる。 榎本宗次は、この慶安の御触書を収録しているのが天保6年(1835)編纂の『教令類纂』のみであって8代将軍徳川吉宗が編纂させた『御触書寛保集成』や、江戸初期編纂の『御当家令条』などには収録されておらず、また各村々へ伝達されたのならば名主の文書にも所蔵されていなければならないのだが、それも一件も報告がないことから、この法令ははたして出されたのかどうか疑ったのである(「『慶安御触書』考」1959年)。 一方で、山本英二は「慶安の御触書」は後世の創作や偽文書ではないと批判し、慶安2年(1649)発布説を鋭く批判し、甲府藩-当時の藩主は徳川綱豊。後の6代将軍家宣-の藩法と思われる元禄10年(1697)の「百姓身持之覚書」を慶安の御触書の原形と位置づけた(『慶安御触書成立試論』1999年)。 今の段階ではどちらの意見が正しいかはっきりと知ることはできないが、近年の歴史教科書にはこの慶安の御触書を記載しない教科書も出てきている。
参考文献・参考URL
評説 日本史 山川出版
精選日本史史料集 第一学習社