寛政の改革
出典: Jinkawiki
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1.白河藩主となる
松平定信は、1758年、田安家の子として江戸で生まれた。父の田安宗武は8代将軍徳川吉宗の次男で、定信は吉宗の孫であった。定信は、17歳の時、白河藩(福島県)松平家の養子となり、やがて藩主となった。この頃、東北地方を中心に天明の大飢饉が起こっていたが、定信は藩内で一人の死者も出さずに農村の立て直しに成功し、名君として知られるようになった。飢饉の影響で、各地では百姓一揆や打ちこわしが、しきりに起こっていた。1787年に白河藩主松平定信が老中となった。
2.寛政の改革を始める
この頃、生活が苦しくなった武士は、商人たちから借金をしていた。定信は、質素・倹約を命じるとともに、商人たちからの借金の一部を返さなくてもよいという棄捐令を出した。天明の大飢饉であれた農村を回復させるために定信は江戸に出稼ぎに来ている農民を農村に帰るようにして、出稼ぎを禁止した。また、飢饉や凶作などに備えて、農村に倉を設けて米などを蓄えさせた。さらに、大名にも米を蓄えておく囲米を命じた。また、江戸にいる浮浪者を石川島に集めて職業の指導をして、仕事に就かせるようにした。さらに、町ごとに非常用のためのお金を積み立てさせるなど、定信は江戸の立て直しにも心がけた。
3.厳しい取り締まり
武士には学問や武芸をすすめるとともに、武士の学問として朱子学を重んじた。そして、幕府の学校である湯島聖堂の学問所では、朱子学だけを学ばせ、それ以外の儒学は異学として禁止した(寛政異学の禁)。また、定信は、生活を乱すような本や政治を批判する本の出版を禁じた。町人作家の山東京伝を、生活を乱したとして取り締まったほか、沿岸の守りを強めることを主張した林子平を幕府の鎖国を批判したという理由で取り締まった。1792年、ロシアのラックスマンが通商を求めて、蝦夷地(北海道)の根室に来航してきた。その翌年、定信は、在職6年で突然に老中をやめさせられた。その後は、白河藩主に戻って、政治や学問に励んだ。
参考文献:「まるわかり日本史」 須藤公博著 永岡書店 ・ 「らくらく入門塾 日本史講義」 小和田哲男著 ナツメ社 ・ 「人物で分かる日本の歴史」数学研究社