足利義満

出典: Jinkawiki

2009年1月25日 (日) 22:19 の版; 最新版を表示
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 足利義満は室町幕府の第3代将軍(在職 1368年-1394年)である。1358年(延文3年)8月22日に足利義詮(第2代将軍)を父、紀良子(義詮の側室)を母として生まれ、幼名を「春王」と名づけられた。

目次

花の御所

 元服して自らが政治を司れるようになると、頂点に立った義満は権力の集中と朝廷への進出を図った。1380年(康歴2年)には従一位、翌年には内大臣、1382年(永徳2年)には左大臣、1383年(永徳3年)には准三宮に進み、次々に官位を手に入れていった。朝廷官吏の任官叙位を左右できるほどの力を得た義満は、1378年(永和4年)、北小路室町の院御所跡をもらい受けて新邸を建て、1381年(永徳元年)には御円融天皇の行幸を仰いでこれを内外に誇示した。新邸は四季を通じて花々が咲き乱れ、名木も多かったことから「花の御所」と称された。

 朝廷を牛耳る人間に相応しくあるため、義満は貴族的教養にも力を注いでいた。二条良基から和歌・連歌を、義堂周信から論語・孟子を学んだ。また、勅撰和歌集にも「新後拾遺和歌集」に19首、「新続古今和歌集」に7首の歌が入集している。1384年(至徳元年)に完成した勅撰和歌集「新続古今和歌集」は将軍からの希望で編纂されたものであると言われる。朝廷の専任であった伝統文化事業に至るまで足利政権は発言を及ぼすようになっていた。

南北朝合体

後醍醐天皇の南朝と光明天皇を擁した足利尊氏の北朝との争いは1336年から1392年まで続いていた。この混乱状態に終止符を打ったのが義満である。南北朝合体を成し得た義満は、1394年(応永元年)、将軍職を嫡子・義持に譲り、太政大臣に任ぜられるが、半年でこれを退位、出家した。しかし、将軍職を譲った後も義満は政治の実権は握っており、1397年(応永4年)には京都北山に広大な山荘をいとなみ、鹿苑寺金閣を建てた。この時代は義満の保護もあり、新しい文化(北山文化)が発達した。

勘合貿易

 1401年(応永8年)、義満は「日本国王臣源」と書にしたため、臣下の礼をとって明へ使節を派遣した。使節の往来が続いた後、1403年(応永10年)、義満は明からの冊封を手に入れて勘合貿易の正式な許可を取り付けた。この頃、朝鮮半島および中国沿岸で倭寇と呼ばれる日本人の海賊行為が行われ、当時の中国の王朝である明の皇帝から、その取り締まりを求められた。ここで倭寇と正式の貿易船の区切りをするために勘合符という合札を用いたために勘合貿易と言われる。この貿易は朝貢貿易であったが、毎年の遣明船往来で義満は莫大な富を得た。義満は明貿易で唐物の輸入だけでなく中国の精神文化をも取り入れ、北山文化の主軸とした。

 義満の子・義持は明貿易を屈辱的外交として通商を断行したが、義教の時代に再開された。勘合貿易には大名や寺社・商人も参加するようになり、開始当初は幕府がその実権を握っていたが、次第に大内・細川の2大名に実権が移り、16世紀には大内氏が独占するようになった。義満は朝鮮とも国交を回復し、対馬の宗氏を仲介として九州地方の大名・商人が交易に参加した。

晩年

出家後の義満は法皇に准ずべく行動し、摂関家を自らの臣下として遇するに至るだけでなく、やがては彼等から法皇としての待遇を受けるようになる。1406年(応永13年)、義満の妻・日野康子は天皇の准母となり、1408年(応永15年)には後小松天皇を迎えて北山第で宴を催し、准法皇の名声につつまれた義満は宴の2ヶ月後、50年の生涯を閉じた。

参考

 臼井信義 著 日本歴史学会編集 「足利義満」 古川弘文館

 今谷明 著 「室町の王権」 中公新書

 後藤武士 「見るだけですっきりわかる日本史」 宝島社

 http://www1.odn.ne.jp/~vivace/kinkaku/ashika1.htm

 http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshimitsu.html


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