大政奉還
出典: Jinkawiki
←前の版 | 次の版→
大政奉還とは、江戸時代末期の慶応3年(1867年)10月14日に、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が、朝廷(明治天皇)に対して政権(統治権)の返上を上奏し、翌15日に天皇がこれを勅許した政治的事件である。
目次 |
背景
第二次長州征伐の失敗以来,幕府の権威の低下は急激であり,薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び、倒幕の動きが強まった。反幕派の多くは大政奉還を希望し,その実現のための運動を進めた。その中心的な担い手となったのが土佐藩である。1867年6月,坂本龍馬の「船中八策」の構想を受けた後藤象二郎が上洛,薩土同盟を結んで薩摩藩の協力を取りつけ,大政奉還運動を推進。のち,薩摩藩は武力討幕を決意するにいたるわけだが,土佐藩は大政奉還運動を進め,10月3日,前藩主山内豊信の名で建白書を提出することを決意する。 薩長のように武力倒幕までは考えなくとも、幕府の専横や旧弊な幕藩体制には不満を抱いている藩も多く、穏健な大政奉還案は各藩からの支持が得られるはずだった。
一方、あくまでも武力倒幕を目指してきた薩長にしてみれば、幕府が力を温存したままでの大政奉還など許せるはずもない。大久保利通をはじめとする薩摩藩では、朝廷を動かして「倒幕の密勅」を獲得し、「官軍」となって「朝敵」である幕府を倒す大義名分を得ようとした。
成立
慶応3年(1867)10月3日、土佐藩による大政奉還の建白書が幕府に提出された。内容は「船中八策」を基本とし、天皇の名のもとに雄藩による会議を開いて、この会議に政治を託すというものである。
大政奉還建白書を受け取った慶喜はこれを容れ、12日に京都・二条城に老中らを召集して大政奉還の意を伝え、13日には在京諸藩の代表を同じく二条城の大広間に召集して同様の決意を述べた。慶喜の決意に対する反対の声は上がらなかったという。この時点での慶喜は、大政奉還後も諸藩の中で最も有力な大名として、政治の実権を握れるものと考えていたのである。14日,徳川慶喜は朝廷(明治天皇)へ上奏文を提出し、大政奉還の許可を求めた。奇しくも大久保利通や岩倉具視らが画策していた「倒幕の密勅」が出されたのも同じ14日であった。
そして翌15日,朝廷はこれを許可し、大政奉還が成立した。1603年に徳川家康が征夷大将軍となって開かれた徳川幕府は、形式上その幕を降ろすことになったのである。
大政奉還後の慶喜
慶喜は大政奉還後の11月、政治顧問である西周に作成させた徳川家に都合の良い政権構想を提出し、招集した諸大名の会議にかけるつもりであったが、肝心の諸大名がほとんど上洛に応じなかった。
大名が上洛しなくては会議も開くことができず、会議をリードして再び権力の座につこうとした慶喜の構想も、立ち往生する形となってしまった。
参考
高野 澄 「徳川慶喜 近代日本の演出者」 日本放送協会
松浦 玲 著 「徳川慶喜 将軍家の明治維新」 中公新書
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%A5%89%E9%82%84