松平信綱
出典: Jinkawiki
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江戸前期の幕府老中。徳川氏の地方(じかた)役人大河内久綱(おおこうちひさつな)の長子で、6歳のとき叔父(おじ)松平正綱の養子となる。9歳で徳川家光(いえみつ)に小姓として近侍、1623年(元和9)小姓組番頭、伊豆守(いずのかみ)に叙任。27年(寛永4)1万石。32年老中並(なみ)、33年六人衆(後の若年寄)、ついで老中武蔵忍(むさしおし)3万石(埼玉県行田(ぎょうだ)市)の城主となった。35年小姓組番頭兼務を免除。37年末、島原の乱鎮圧の命を受け、翌年2月鎮定。その功績により39年武蔵川越(かわごえ)6万石(埼玉県川越市)に転じ、47年(正保4)7万5000石に加増された。家光が死ぬと阿部忠秋(ただあき)と幕閣の頂点にたち、4代家綱(いえつな)を補佐し、松平定政事件や由比正雪(ゆいしょうせつ)の乱を処理、明暦(めいれき)の大火後の復興に努めた。才気あふれ「知恵伊豆」といわれ、逸話は多い。家光・家綱2代にわたり新参譜代(ふだい)の中心として幕政を運営、幕藩体制の確立に尽くした。すなわち、武家諸法度(ぶけしょはっと)の改訂、参勤交代の制度化、鎖国の完成、牢人(ろうにん)問題の処理、寛永飢饉(かんえいききん)後の幕政改革に参画した。川越藩政の確立にも大きく寄与し、38年の川越大火後の城郭修築拡張、城下町の町割・復興と町制の整備、喜多院(きたいん)・仙波(せんば)東照宮再建、新河岸(しんがし)川舟運の開設、荒川(あらかわ)・入間(いるま)川治水、慶安(けいあん)総検地の実施、野火止(のびどめ)用水開削と武蔵野開発、勧農政策の実施などに努力した。また出羽庄内(しょうない)藩の幼主酒井忠義(ただよし)の外祖父として後見、藩内紛争を処理した。62年(寛文2)の死まで老中を勤め、武蔵岩槻(いわつき)の平林寺(へいりんじ)(翌年野火止に移転)に葬られた。
小ネタ
幼少の頃より才知に富んでおり、官職の伊豆守から「知恵伊豆」(知恵出づとかけた)と称された。
鎖国を完成させた男松平伊豆守信綱:岩田祐作
知れば知るほど江戸大名:実業之日本社