ジョン万次郎

出典: Jinkawiki

2009年1月27日 (火) 10:42 の版; 最新版を表示
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無人島での漂流生活

 1827年1月1日、万次郎は土佐清水市中浜の貧しい漁師の家に、2男3女の次男として生まれた。  土佐で漁師をしていた14歳の万次郎は、1841年1月、仲間4人と漁に出る。ところが突然の嵐にあい、船が壊れて帰れなくなってしまう。そして、5日間の漂流ののち、鳥島という無人島にたどり着く。たまたまその年の黒潮は曲がったと考えられており、その黒潮に流され、伊豆諸島の先端にある鳥島に流れ着いた。鳥島は直径2キロほどの火山島であり、ここに流れ着いたのは万次郎たちだけではなく、それ以前に少なくとも数十人が漂着し、自力で脱出している。中には19年も島で生活していた人もいた。彼らは洞窟に住み、アホウドリを食べて生き延びた。


捕鯨船に助けられ、アメリカへ

 万次郎たち5人は洞窟生活を始めてからおよそ5ヵ月後、幸運にもそのときたまたま通りかかったアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に救助された。ジョン・ホーランド号のウィリアム・H・ホイットフィールド船長が万次郎たち5人を安全なハワイへと連れて行くが、そのとき万次郎はここで1人アメリカへ渡る決心をするのであった。 万次郎の申し出を船長は快く了解し、仲間4人をハワイに残してアメリカへたつ。万次郎の鋭い観察力と前向きな行動力は船長らに認められ、早速、ジョン・ホーランド号からとった「ジョン・マン」という愛称をつけられ親しまれた。船がアメリカに戻ると、万次郎は船長の家に暖かく迎えられ、塾や学校に通わせてもらう。こうして万次郎は、三年間、熱心に英語や学問を学んだ。万次郎が暮らした家はマサチューセッツ州のフェアヘブン郊外にある。万次郎は学校の成績もよく、また教会にも通った。  万次郎はその後、また三年半にわたる捕鯨の航海に出る。そして旅費を稼ぐために、カリフォルニアの金山で働いた後、ハワイへ渡った。そこで昔の仲間と会った万次郎は、中国行きの船に乗って、なつかしの日本へ向かった。


日本に帰国

 帰国した万次郎は、取調べを受けた後、いったん故郷へ帰った。しかし、ペリーが日本へ来るということで、アメリカに詳しい万次郎は幕府に呼び出され、江川太郎左衛門(海の守りを固めるため反射炉の建設を進めた人物)の下で造船や翻訳を行った。1860年には、咸臨丸に通訳として乗り、再びアメリカへ渡る。咸臨丸の太平洋横断は鎖国の終わりを告げる出来事であり、船上には他に、歴史上重要な人物である勝海舟と福沢諭吉の姿があった。帰国後は、小笠原の開拓調査、捕鯨活動、薩摩藩開成所の教授就任、上海渡航、明治政府の開成学校(東京大学の前身)教授就任、アメリカ・ヨーロッパ渡航とめまぐるしく働き続け、1898年(明治31)、万次郎は71歳でその生涯を閉じた。




参考


  人間科学大事典

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