ニュートン
出典: Jinkawiki
←前の版 | 次の版→
アイザック・ニュートン(Isac Newton)1642―1727年
イギリス出身の自然科学者。ニュートンの生年が資料によって違うのは、日本で使われている西暦と当時イギリスで使われていた旧暦にずれがあるためである。
ニュートンの逸話で有名なのが、落ちるりんごをみて万有引力の発見である。これが真実であるかは定かではないが、のちにニュートンは運動の法則の発見や、微分積分法の開発をなしとげている。また、光と色の理論というものもまとめた。ニュートンの実家にあったりんごの木の子孫が東京の小石川植物園などにも植樹されている。
ニュートンは優秀な学生時代を送ったあと、さまざまな職に就いている。
ニュートン年譜
(英国ユリウス暦による)
1642年:ピューリタン革命はじまる。12月25日アイザック・ニュートン生まれる。
1649年:チャールズ一世処刑。
1653年:クロムウェルの護民官政(58年まで)。
1655年:ニュートン、グランサムのグラマー・スクールに入学。
1656年:スミス師死に、母がウールスソープに戻る。ニュートンを学校から連れ戻す。
1658年:ニュートン再び学校に戻る。
1660年:王政復古。王立協会が設立される。
1661年:ニュートン、ケンブリッジのトリニティ・コレッジに入学。
1665年:ペスト流行。ニュートン卒業。ペスト流行のためウールスソープに戻る。
1667年:「科学用語辞典」を作成。天然痘の治療にあたる。
1668年:反射望遠鏡を作成。
1669年(ニュートン26歳):トリニティカレッジのルーカス数学初代教授
ニュートンから後にこの職に就いた人には有名人が多い。2003年にはホーキングがついた(当時38歳)。ホーキングはイギリス生まれの理論物理学者で宇宙論でアインシュタインに次ぐ有名人で、ブラックホール研究の第一人者。
1671年:反射望遠鏡の第二号を製作、王立協会に送り国王の観覧に供する。
1672年:ロンドン王立協会の会員に選出。「光と色についての新理論」発表。
会員であったこの時期に出会ったロバート・フックがライバルとなり、ニュートンは自分の光の理論を発表しようとするものの、フックに批評され、4年あまり光学論争が続いた。
1687年:「プリンピキア」(自然哲学の数学的原理)刊行
1693年:つよいうつ病にかかる。
その原因については諸説ある。ロンドンにうつるために職を探したがうまくゆかなかった、研究の手稿が誤って処分された、当時こっていた錬金術で使用する水銀のどくにやられていたのではないかなど様々である。
1696年:造幣局監事になる
かつての教え子モンタギューが大蔵大臣となり、紹介してもらった。
1699年:造幣局の長官になる
1703年:王立協会の会長になる
1705年:爵位を得る(サー・アイザック・ニュートン)
引用文献
ニュートンの秘密の箱(小山慶太,丸善)
ニュートン(島尾永康,岩波新書)