ロシア革命

出典: Jinkawiki

2009年1月27日 (火) 15:38 の版; 最新版を表示
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目次

前史

ロシアでは1861年の農奴解放以後も農民の生活向上は緩やかで、封建的な社会体制に対する不満が継続的に存在していた。平静であった農村でも、40年ぶりに一揆が頻発した。また、19世紀末以降の産業革命により工業労働者が増加し、社会主義勢力の影響が浸透していた。これに対し、ロマノフ朝の絶対専制(ツァーリズム)を維持する政府は社会の変化に対し有効な対策をとることができないでいた。1881年には皇帝アレクサンドル2世が暗殺されるなどテロも頻繁に発生していた。 大衆運動の活発化と並行して、政党の組織化が進んだ。1898年に結成されたロシア社会民主労働党は、ボリシェビキとメンシェビキの2分派を生み出しつつ、組織的な革命運動に乗り出した。一方、変革の担い手をプロレタリアート、勤労農民に求めるSR党も、革命的なナロードニキのサークルを基礎に結成され、04年7月、内相プレーベの暗殺など多くのテロ活動を行った。また自由主義者たちも、03年にはゼムストボ立憲主義者同盟を、04年には自由主義的な知識人と地主が非合法結社の解放同盟を結成し、立憲政治を求める活動を開始した。 日露戦争での苦戦が続き、1905年には首都サンクトペテルブルクで生活の困窮を訴える労働者の請願デモに対し、軍隊が発砲し多数の死者を出した(血の日曜日事件)。この事件を機に労働者や兵士の間で革命運動が活発化し、全国各地の都市でソヴィエト(労兵協議会)が結成された。また、黒海艦隊では「血の日曜日事件」の影響を受けウクライナ人水兵らが反乱を起こしたが、鎮圧された。呼応した他の反乱も、戦闘ののち鎮圧された。この時期、ロシア中央から離れた黒海沿岸諸都市などで、革命運動が盛り上がりを見せた。こうした革命運動の広がりに対し皇帝ニコライ2世は十月勅令で国会開設と憲法制定を発表し、ブルジョワジーを基盤とする立憲民主党の支持を得て革命運動の一応の鎮静化に成功した。 1906年に国会が開設されると、首相に就任したストルイピンによる改革が図られたが、強力な帝権や後進的な農村というロシア社会の根幹は変化せず、さらにストルイピンの暗殺(1911年)や第一次世界大戦への参戦(1914年)で改革の動きそのものが停滞してしまった。一方、ロシア社会民主労働党は、方針の違いから分裂していたメンシェヴィキとボリシェヴィキが、ナロードニキ運動を継承して農民の支持を集める社会革命党と共に積極的な活動を展開し、第一次世界大戦においてドイツ軍による深刻な打撃が伝えられると、その党勢を拡大していった。


第一次世界大戦の開始

開戦は、国内支配層の団結と挙国一致の雰囲気をつくりだし、労働運動を沈黙させた。そしてSR(エスエル)やメンシェビキら多くの社会主義者のなかにも祖国防衛戦争を支持する潮流を生み出した。しかしロシアは、兵員輸送難と砲弾補給難に陥り、1915年春から夏にかけてのガリツィア、ポーランドでの大敗は社会の動揺を大きくした。モスクワでは、労働者代表も加わり、帝政の改造による「戦える政府」を目ざした。労働運動も16年に入ると高揚し、また前線兵士の戦争意欲の喪失も問題となってきた。16年夏から年末にかけて、中央アジア住民を中心とする兵役動員に対する民族反乱も起こった。そして政権の頂点にたつニコライ2世は、ラスプーチンと皇后のグループの思いのままに動かされていた。16年12月、専制内部からラスプーチンの暗殺が決行されたが、すでに手遅れであった。


二月革命

1917年に入ると、首都ペトログラードでは「血の日曜日」記念日に大規模なストライキが打たれた。首都の社会主義諸団体は、2月23日の国際婦人デーを屋内集会として記念する予定であった。しかし当日、ブイボルグの婦人繊維労働者たちはストライキに入り、周辺の工場に同調を求めた。食糧不足は深刻になっており、パンを求めて行列が続いた。翌日、ストライキは多くの区に広がり、市の中心部に行進した大衆は、「パンをよこせ」に加えて「戦争反対」「専制打倒」のスローガンを掲げ始めた。ストライキは全市に拡大、デモ隊と警官・軍隊との武力衝突が本格化した。27日の朝には近衛ボルイニ連隊が民衆への発砲を強いられる出動を拒否し、それは急速に他の部隊に波及した。反乱に立ち上がった兵士たちは労働者とともに政治犯を解放した。28日には政府軍が消滅し、革命7日目の3月1日までに政府閣僚が逮捕された。ニコライ2世退位し300年余りにおよぶロマノフ朝は終わりをつげた。 二月革命から十月革命の間に、多数の無政府主義者および共産主義革命論者は革命の拡大を試みた。7月にペトログラードのボリシェヴィキは労働者階級および無政府主義者と共同して市民の蜂起を試みたが、この動きは臨時政府により鎮圧された。


臨時政府の成立と二重権力状態

二月革命後にドゥーマ議員、特にカデットを中心として臨時政府が発足した。その一方で労働者や兵士の意見を代表するソヴィエトも発足しており、この両権力が連携して政権運営がなされた。 社会革命党のケレンスキーが指揮する臨時政府は、従来の英・仏・露による同盟関係を尊重し、対ドイツ戦を継続する姿勢をとった。これにはソヴィエトも当初は同調していたが、ボリシェヴィキの指導者レーニンが亡命先のスイスから封印列車に乗り帰国すると、"平和とパンの要求"を掲げて戦争継続の姿勢をとる臨時政府を批判した。しかしこの時点ではボリシェヴィキはソヴィエトにおける少数派にとどまっていた。 7月に入り臨時政府内部の対立が顕在化した。軍内部の革命勢力の一掃を求める最高司令官のコルニーロフ将軍と彼を任命したケレンスキー首相の対立が深まり、コルニーロフは反臨時政府のクーデターを引き起した(コルニーロフ事件)。ケレンスキーは赤衛隊の助けを借りてこれを鎮圧したが、その中心となったボリシェヴィキはソヴィエト内での権威を高め、全ての権力をソヴィエトに集約すべきという見解も一般的になっていった。一方で、9月には臨時政府は国号をロシア共和国に改め、正式な共和制国家の創設を宣言した。 一方、2月27日の夜、社会主義者の右派・中間派を主流とする執行委員会が選出された。ソビエトには労働者とともに兵士も代表を選出した。そして3月1日、兵士はソビエトに従うことが表明された。ペトログラード労兵ソビエトは、その後続々と結成される各地のソビエトの全国的中心となった。


十月革命

1917年8月31日、ペトログラード労兵ソビエト総会が「革命的プロレタリアートと農民の代表からなる政権」を決議し、9月25日に至って、第一革命時の議長であるトロツキーを議長に選出した。同月28日、モスクワ労兵ソビエト合同会議も「全権力をソビエトへ」を可決した。このような動きは各地に波及し、全国的なソビエト権力の樹立が日程に上った。ボリシェビキは10月16日、地下潜行中のレーニンを交えた中央委員会で「武装蜂起」を決定し、その時期についてはソビエトの動向を重視することにした。 首都のソビエトは、10月16日、首都の防衛を目的とする軍事革命委員会を設立した。SR、メンシェビキが委員会をボイコットしたため、これがボリシェビキら、革命派のみによって構成される十月革命の合法的な指導機関となった。臨時政府は24日、士官学校生を主力とする部隊を動かして反攻に出たが成功しなかった。第2回全ロシア・ソビエト大会が開かれた25日の昼過ぎには、臨時政府の立てこもる冬宮周辺以外はほとんどソビエトの管理下に入った。ソビエト権力の樹立が自覚的に追求されていたため、二月革命のような大規模な街頭デモやストライキは行われなかった。


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