血盟団事件

出典: Jinkawiki

2009年1月27日 (火) 15:55 の版; 最新版を表示
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血盟団事件とは、1932年(昭7)の2月から3月にかけて起きた連続テロ事件のことである。事件を起こした血盟団は、日蓮宗の僧侶である井上日召(茨城県東茨城郡大洗町・立正護国堂住職)が率いる右翼集団であった。 日召は戦前では右翼団体血盟団、戦後派右翼団体護国団の指導者として活動。本名は井上昭であり、昭の字を分けて日召とした。

日召は、「一人一殺」を血盟団のメンバーに指令し、政党政治家や財閥重鎮および特権階級などの20余名の暗殺を企てた。日召は20余名を「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」としている。そして「紀元節前後を目途としてまず民間から血盟団がテロを開始すれば、続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」といった構想を持っていた。 当時、浜口内閣が行った禁輸出解禁(金本位制への復帰)や緊縮財政は、世界恐慌の影響により大変深刻な不況を招いていた。なかでも、大蔵大臣であった井上準之助は、金融界の意向に配慮した旧平価解禁の強行やその後のドル買事件に際して、一転して金融界と衝突を起こすなど、井上の政策判断のミスによってより一層の恐慌深刻化と金輸出解禁の失敗を招いた。これにより、国民生活は困窮を極めざるを得なかった。 また、團琢磨は当時、三井財閥の総帥で。三井合名会社理事長や日本工業倶楽部初代理事長を務め、名実ともに日本経済界・財界のリーダーであった。昭和金融恐慌のときは三井がドルを買占め暴利をむさぼっていたことを批判されていた。

そして1932年2月9日、東京都本郷の駒本小学校へ総選挙の応援演説のために訪れた、前大蔵大臣で民生幹事長であった井上準之助が射殺された。実行犯は血盟団のメンバーで、茨城県那珂郡の農村出身の青年2名(小沼正・菱沼五郎)であった。 同年3月5日には、三井銀行本店の玄関前で三井財閥の総帥(三井合名理事長)であった團琢磨が射殺された。実行犯は井上準之助を射殺したものと同一であった。 また、日召が暗殺を企てたリストにはこの2名のほか、政友会犬養毅・床次竹次郎、民政党若槻礼次郎・幣原喜重郎、三井の池田成彬、三菱の木村九寿弥太、重臣西園寺公望、内大臣牧野伸顕、枢密顧問官伊東巳代冶、貴族議員長徳川家達らなどの名前が挙げられていた。

警察は血盟団の組織的犯行であることを突き止め、日召はいったん捜査の手を逃れようと図るが3月11日に自首。関係者14名が一斉に逮捕された。裁判では井上日召、小沼正・菱沼五郎の3名が無期懲役判決を受けた。その後1940年に恩赦で出獄。 血盟団事件は、後に起きる五・一五事件の前段階といわれている。


国家主義運動

低迷していた社会主義運動と相反して、満州事変とともに活動を活性化していったのは、政治にも大きな影響を与えることとなった国家主義的な運動である。共産主義運動の場合には、治安維持法により、組織そのものが違法として警察などに活動を検挙されていた。それが新聞で報道されることで、妙産主義運動を起こすグループの存在が世間に知れわたるようになっていた。このようなグループの活動は、秘密の会合を開き、新聞やパンフレットを作り、そして検挙されるということであった。それに比べ、国家主義系の運動は、テロリズムという非合法手段をとることで、自らの存在を誇示している。裁判の報道でも存在の誇示をなされているが、報道うんぬんよりもテロ行為そのものが世間に大きな衝撃を与えていたのである。


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