カエサル
出典: Jinkawiki
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カエサル Gaius Julius Ceaser(前102-44)
ローマ共和制末期の将軍にしてローマ最大の政治家。また、武人として西洋史上最大の影響を残した人物の一人。
名門に生まれたが、幼時のことは不明。姻族関係から人民派に属し、元老院派のスラの全盛時代に迫害をうけ小アジアに逃れた。スラの死によりローマに帰り、ドラベラの施政を告発して政治生活に入る。
財務官、按察官、大神官となり名声を高めるとともにローマ最大の負債者となったが、前60年にはクラッスス、ポンペイウスとともに第1次三頭政治をおこない、前59年に執政官として土地法案、徴税請負入札額の削減、属州での政務官の不法搾取禁止法、元老院議事録公開法の制定など敏腕をふるった。前58年から前51年にガリア遠征を行い自己の権力地盤を確立し、西ヨーロッパのローマ化の基礎を築いた。前56年のルカの会談でガリアの支配権を5ヵ年延長したが、前54年カエサルの娘でポンペイウスの妻、ユリアが死亡、前53年クラッススの戦死によってカエサルポンペイウスの対立関係が顕著となった。身の危険を感じたカエサルは属州にあって軍隊を保持したまま執政官に立候補することを要求したが、認められず、前49年1月カエサルの召還が決議されると、ルビコンの河越えを決行してローマを占領、前48年ファルサロスの戦いでポンペイウスを破った。ついで、エジプトに干渉し、クレオパトラを王位につけて前46年にはポンペイウス派の残党を破り、また、ポンペイウスの2人の息子を討ってローマに凱旋、天下統一の事業を完了した。前46年ディクタトルとなり、前44年アントニウスより王冠を奉呈され、受け取りこそしなかったものの、王位の確立を暗示する予言が発見され、王政に対する危惧が増大した。
彼は独裁政治中に、穀物分配受益者の制限、貧民・除隊兵の海外への植民、陪審制度の改正、徴税請負の廃止、都市法の制定、太陽暦の採用、大図書館の建設などの大事業を行った。偉大な政治家、将軍であったが、元老院派の実力を過小評価したため失敗し、3月15日ブルートゥスらによってポンペイウス像の前で暗殺された。
参考文献
・京大西洋史辞典編纂会編 「新編 西洋史辞典 改訂増補」 東京創元社
・「岩波 西洋人物辞典 増補版」 岩波書店