地租改正
出典: Jinkawiki
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江戸時代以来の米納や時価による代金納の年貢収入は、米価の変動や豊作・凶作に影響されて不安定であった。そこで、廃藩置県によって全国の権力を握った政府は、租税の改革に着手し始めた。
地租改正案については、蕃書調所の教授で幕臣であった神田孝平が新政府に出仕し、地租改正の理論基盤をつくった。そしてこれを、和歌山藩士の租税頭であった陸奥宗光が地方官の協力を取り付けて立案し、次の租税頭である松方正義が大蔵省地租改正事務局長兼務で大久保利通総裁の下、実務一切を遂行した。
前提として、1871年に田畑勝手作(作付けの自由)を認め、翌年には田畑永代売買禁止令をとき、地券を交付して土地の有権を認めた。(地券とは、土地の所有者に公布された証明書のことで、面積・地価と地租率が記されている。1877年より率が変わっている)
その上で1873年、地租改正条例を定め、土地を調査して面積・収穫量を明らかにし、これに基づいて地価を算定すること、土地所有者は豊作・凶作に関係なく地価の100分の3の納入を命じること、納入は金納とすることを決定した。
地租改正の内容は以下の通りである。
[1]旧来の石盛(反あたりの平均収穫量)に代わって、全国一律の基準で決定された地価を課税標準とし、課税の全国統一をはかる。
[2]税率は地下の100分の3を定率とし、年の豊によって増減はしない。(ただし天災で一定限の免租がある―旧地租にはなかった事項)
[3]収納物件は貨幣とする。
[4]納税義務者は地券によって確定された土地所有者とする。
また、布告に添付された条例のなかでは、
[1]偏軽偏重の苦情申し立ては原則として受理されない。
[2]豊凶により増減しない。
[3]田畑は一律に「耕地」、家屋の土地は「宅地」
[4]茶・煙草などの物品税収入が200万円以上になったら、税金を地価の100分の1に下げる。
という項目が示された。[2]と[4]は新税の特徴である。さらに翌年には5ヶ年は最初決めた法廷地価によるという章が追加された。
以上の地租改正事業は1880年前後には終了し、これによって政府は毎年定額の地租を現金で徴収することができるようになった。地租改正条文だけを見れば「近代性」を持っているといえよう。だがしかし、中身は名前に伴わず、その本質はきわめて封建的なものであった。
政府は江戸時代の年貢収入を維持することを目的として地価を算定していった。このため農民の税負担には基本的な変化はなく、負担の公平を掲げながらも、旧来と変わらいない地租賦課を原則としたことから、増租となった地域などで反対一揆が激化した。改正事業の初期段階では、地押丈量の実施、地位等級や収穫額の決定に対する批判など、政府が強行した地価決定過程に対する反発が多かった。新租施行までの石代納米価も農民の不満となった。
1867年、地租改正反対一揆
茨城県…事業督促のために権令が真壁・那珂両郡に出張し、農民側の建白を取り上げなかっことを端緒とした。前年の米価による石代納が、米価の大幅暴落で困難になったことから、減租・延納運動が激化。一揆は真壁・那珂両郡の農村に拡大。減租に加えて、学校新設課金の廃止、改正費用の官費による支弁などを要求に掲げるようになった。
三重県…伊勢暴動として起きた地租改正反対一揆はたちまち愛知・岐阜県下に広がり。処罰者は5万人を超えた。
この相次ぐ一揆により、翌年、政府は地租の率を100分の2.5に引き下げざるをえなかった。農民の地租軽減の狙いは、その後の自由民権運動にひきつがれた。
地租改正は、金納によって農民を商品経済に巻き込み、農民層分解を促進した。
松尾正人編著(2004)日本の時代史21 明治維新と文明開化 吉川弘文館
中村政則著(1998)労働者と農民 日本近代をささえた人々 小学館