四日市ぜんそく2
出典: Jinkawiki
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裁判までの経過
四日市の海岸は昭和30年代初期までは美しい海であった。浅瀬で、水がきれいだったから夏は海水浴場としてにぎわい、秋は地引網が盛んだった。このように自然のままの海浜を工場地帯に変える、当時の日本で最大の石油化学コンビナート建設計画が決定されたのは、昭和30年8月26日の閣議了解に基づいている。
この閣議了解事項は、四日市市塩浜地区の旧海軍燃料廠跡地(国有地)約660万㎡を昭和石油とシェル・三菱両グループに払い下げ、跡地に石油化学コンビナートを建設して利用を促進しようというものである。昭和31年約100万㎡の敷地を持つ製油所の建設が始まり、翌32年には製油所から原料の供給をうける工場群の建設が進められ、35年には第一コンビナート(通称塩浜コンビナート)が完成して本格的に稼働を始めた。
企業群の誘致に成功したことは三重県や四日市市の大きな功績とされた。四日市市は臨海工業地帯を造成した場合、どの程度の公害が発生するかについて科学的な事前調査は何ひとつしていなかった。公害問題の発生など全く予想していなかったのである。
また、三重県・四日市市の工場誘致活動の推進により、重化学工業化を中心とした地域開発が進行していき、昭和36年には第二コンビナートが建設された。 さらに、第三コンビナートを建設する計画が進められた。この計画には、第一、第二コンビナートの稼働に伴う公害の被害者たちが反対運動をおこしたが、四日市市議会全員協議会で、強行採決で計画を可決した。こうして昭和42年には第三コンビナートが建設され、昭和47年から本格稼働していった。
第一コンビナートの所属企業と役割(カッコ内)
昭和四日市石油(石油精製)
三菱油化川尻工場(ポリプロピレン)
三菱油化四日市工場(ポリエチレン)
三菱油化旭工場(硫安・化学肥料)
三菱モンサント化成工業(ポリ塩化ビニール)
三菱化成工業(カーバイト)
日本合成ゴム(合成ゴム)
味の素東海工場(グルタミン酸ナトリウム)
四日市合成(非イオン界面活性剤)
日本ブタノール(ブタノール)
中部電力三重火力発電所(電力)
松下電工(フェノール樹脂成型材料)
三菱江戸川化学(過酸化水素)
油化パーディッシュ(発泡性ポリエチレン)
石原産業(化学肥料・硫酸農薬)
第二コンビナートの所属企業と役割(カッコ内)
大協石油(石油精製)
大協和石油化学(エチレン・プロピレン)
協和石油化学(アルデヒド・アセトン)
中部電力四日市火力発電所(電力)
第三コンビナートの所属企業と役割(カッコ内)
新大協和石油化学(エチレン)
協和油化(アセトアルデヒド)
東洋油化(塩化ビニールモノマー)
大日本インキ化学工業(ポリスチレン)
日立化成工業(計画中止)
鉄興社(プロピオン酸)
日本ポリケミカル
上野製薬
中部ケミカル(高密度ポリエチレン)
四日市公害裁判
こうした公害状況が悪化する中、公害患者9名が1967年、塩浜コンビナート6社を相手取り、公害訴訟を行う。
裁判は4年5ヶ月に及ぶが、「四日市公害訴訟を支持する会」による支援が行われ、市民による支援運動も繰り広げられた。また、澤井余士郎を中心とした「四日市公害を記録する会」による記録活動は、公害患者・住民と裁判をつないでいき、さらに「四日市公害認定患者の会」ができて認定患者の組織化がなされた。
しかし、その間にも四日市での公害に関する問題が起こる。昭和44年田尻宗昭課長をはじめとする四日市海上保安部は、塩酸を含む排水を垂れ流した日本アエロジル四日市工場を、さらに硫酸を垂れ流した石原産業を摘発した。こうした垂れ流しが平然と行われていた実態が明らかになり、当時四日市の海は死の海と化していた。
四日市公害裁判の争点は、
①原告の病気と被告工場のばい煙の因果関係
②コンビナートを中核とする複数の工場群に共同不法行為が成立するかの2点であった。昭和42年原告側全面勝利の判決がなされた。
判決の影響はその後の環境行政に現れた。通産省はコンビナートの総点検・監視を行うようになり、環境庁は環境基準の見直し、三重県は公害緊急対策・抜本対策に取り組み、また総量規制の実地、四日市市は被害者救済・公害防止条例の制定などを行っていった。 一方、礒津地区だけでなく全市的に展開させる二次訴訟の動きもあったが、終息していった。
参考文献
川名英之 1987 「ドキュメント 日本の公害」 緑風出版
小田康徳 2008 「公害・環境問題史を学ぶ人のために」 世界思想社
土屋清 2003 「新現代社会資料2003」 実教出版
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