鉄砲の伝来

出典: Jinkawiki

2009年1月27日 (火) 23:15 の版; 最新版を表示
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 大航海時代にはいり、ポルトガルはゴア・マラッカ・マカオに進出し、スペインはフィリピンを占領した。一方で、日本人も15世紀には、南洋各地に進出していたので、日本人とヨーロッパ人がいつ接触するかは時間の問題であった。1543年(天文12)年、マカオからマラッカに向かった船が種子島に漂着した。ポルトガル人が雇った船で乗務員約100人中ポルトガル人は3人であった。このポルトガル人の来航は、同時に鉄砲伝来でもあった。彼らがもたらした鉄砲は、戦争を激しいものとし、集団戦法を発達させ、戦術・武器・武具・築城法に影響を及ぼし、統一の機運を高めた。織田信長が1575(天正3)年、武田勝頼を破った長篠の戦いは、鉄砲の威力を集中的に、最も有効に使用した戦争であった。鉄砲伝来から2、30年の間に、堺鍛冶や近江の国友鍛冶が生産した鉄砲は、膨大な数にのぼったと思われる


史料

 天文12(1543)年秋の8月25日、我が種子島西村小浦に一隻の大船が漂着した。どこの国か来たか不明であった。船には100余人が乗っており、その顔かたちは日本人とは異なり、言葉も通じない。周りでは変わった人々だという評判が高くなった。彼らの一人がある物を手に持っていた。その長さ2・3尺(約7,80センチ)。その形は中に穴があいていてまっすぐで、重かった。中の穴はまっすぐあいていたが、底は堅くとざされていた。底の近くに小さな穴があり、それは火を通す道であった。形は他のものに比較しようがなかった。その使用法は、妙薬(火薬)をその中に入れ、一緒に小さな鉛玉も入れた。そして小さな目標物を海岸に置き、その異人自らが変わった物を手にし、身構え、片方の目をつぶってねらいを定め、小さな穴より火を放った。百発百中であった。領主種子島時堯は、その値段の高いのに文句も言わず、彼らが持っていた鉄砲2挺を買い求め、家宝にした。 (鉄砲記)


影響

   鉄砲が伝来したことにより、戦い方が大きく変化した。今までは弓矢や槍を武器として使用していた頃は山城が主流であった。しかし、鉄砲が武器に使用されると、飛躍的に射程距離が長く、殺傷力も強いため、鉄砲の攻撃や侵入を避けるように大きく深い堀や幅の厚い塀を造ることが出来る平野や盆地の中の平地や丘陵の上に築かれた平城・平山城が多くなった。これまでは、足軽は戦闘の主役ではなかったが、鉄砲の伝来で集団戦法が発達し本格化されたため、訓練された鉄砲の足軽隊が組織され備の主要な部隊として活躍するようになった。 また、「蒙古襲来絵巻」に見られる「てつはう」。この「てつはう」と呼ばれるものはもともと火薬がつめられたものである。このように、火薬に関して少なからず興味を持っていた日本は、この鉄砲の伝来を機に日本でも鉄砲の生産をはじめる。



参考文献

精選日本史史料集 第一学習社


  人間科学大事典

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