フランス革命2

出典: Jinkawiki

2009年1月28日 (水) 15:23 の版; 最新版を表示
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<当時のフランス>

18世紀のフランスでは、絶対王政のもとで特権身分の聖職者と貴族が農民や商工業者からなる平民を支配していた。聖職者や貴族は税の免除などの特権を持っていたが、農民や商工業者は重い税に苦しみ、経済の自由が制限されていた。しかし啓蒙思想家やアメリカの独立戦争の影響で平民たちは身分による差別を批判しはじめた。

<フランス革命の経緯> アメリカ独立戦争の支援や贅沢な宮廷生活により、当時のフランスは財政難に陥っていた。国王ルイ16世は、聖職者や貴族にも課税を行おうとした。これに反対する、聖職者や貴族たちは、聖職者・貴族・平民からなる三部会という議会を175年ぶりに開いた。しかし、聖職者・貴族と平民の間で、議決方法をめぐって対立した。そこで平民たちは三部会を脱退し、国民議会を開いて憲法の制定を要求した。しかし、ルイ16世はこれを認めず、武力で弾圧しようとした。そのため、1789年、国民議会を指示していたパリの民衆たちは、バスティーユ牢獄を襲撃し、フランス革命がはじまった。革命の波はフランス全土に広がり、国民議会は人権宣言を発表し、自由と平等、主権は国民にあることなどを明らかにした。 当初の議会では、立憲君主制を望む者が多かった。しかし、ルイ16世は国外に逃亡しようとし、途中で連れ戻された。これにより、ルイ16世は国民の信頼を失い、1792年議会は王政を廃止して共和制を樹立し、翌年にはルイ16世を処刑した。

<フランス国内の様子>

革命の波及を恐れるヨーロッパ各国の君主たちはこれに干渉して、反発した革命政府との間でフランス革命戦争が勃発した。フランス国内でも、カトリック教会制度の破壊などキリスト教の迫害、ルイ16世の処刑をはじめとするギロチンの嵐、ヴァンデの反乱を始めとする内乱、ジャコバン派による恐怖政治、繰り返されるクーデター、そしてそれに伴う大量殺戮などによって混乱を極めた。革命は1794年のテルミドールのクーデターによるジャコバン派の粛清によって転換点を迎えたが、不安定な状況は1799年のブリュメールのクーデター、あるいは1801年にフランス政府がローマ教皇とコンコルダートを結んで和解するまで継続した。 混乱に決着がついたのは、フランスがアメリカの民主政治に学んだ第三共和政からで、革命勃発より80数年を要した。


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