イギリス市民革命

出典: Jinkawiki

2009年1月28日 (水) 16:00 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

<イギリスの市民革命の概要>

 三十年戦争が終結に近づいた頃、イギリスではピューリタン革命(清教徒革命)と呼ばれる内乱が勃発し、王政が廃止されて共和政が成立した。その後ふたたび王政が復活したが、さらに名誉革命と呼ばれる革命によってイギリスでは立憲君主制が成立し、国王は「君臨すれども統治せず」と言われる存在となった。このピューリタン革命と名誉革命は、通常イギリスの市民革命とされている。「市民革命」とは、絶対王政を打倒し、近代市民社会への道を切り拓く革命のことである。

<当時のイギリスと市民革命>

当時のイギリス国王は議会を無視して重税をかけ、清教徒(ピューリタン)を圧迫するなど専制政治を行った。そこで、1628年に議会は国民の基本的人権や議会機能の回復を求める権利請願を国王に提出した。しかし、国王はこれを無視したため、国王と議会の対立は深まっていった。1642年、議会側の指導者であるクロムウェルは内乱を起こし、清教徒を中心とした軍隊で国王軍を破った。そして1649年、当時の国王であったチャールズ1世を処刑し、議会による共和政治を行うことを宣言した。このことを清教徒革命という。 しかし、革命後クロムウェルは独裁政治を強め、国民の不満は高まった。彼の死後王政が復活し再び国王による専制政治が行われるようになった。そのため1688年、議会は当時の国王を退け、オランダから新国王を迎えた。旧国王は抵抗せずにフランスに亡命した。この革命は流血も混乱もなく行われたため名誉革命と呼ばれている。 新国王は1689年議会の要求を受け入れ権利の章典を制定した。この権利の章典は、権利の請願の内容を受け継いだもので議会の役割を明確にし、国民の自由などが保障されることになった。名誉革命によってイギリスでは王政のもとに議会政治が確立し「国王は君臨すれども統治せず」という原則が定まった。このように商工業者などの市民層が中心となった革命を市民革命という。

参考文献

旺文社「中学総合的研究社会」    ピューリタン革命と名誉革命 http://members.jcom.home.ne.jp/spu/032.htm


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成