徳川綱吉

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2009年1月28日 (水) 17:15 の版; 最新版を表示
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徳川綱吉

徳川 綱吉(とくがわ つなよし、正保3年1月8日(1646年2月23日) - 宝永6年1月10日(1709年2月19日)、在職:延宝8年(1680年)-宝永6年(1709年)は江戸幕府の第5代将軍である。3代将軍家光の4男、幼名は徳松。母は桂昌院(お玉)。正室は鷹司教平の娘信子。側室に瑞春院(お伝)、寿光院、清心院。お手つきに牧野成貞の妻の阿久里とその娘の安などがいたという俗説もあるが、後世の創作と考えられる。子は、徳川徳松、鶴姫。俗に、柳沢吉里が綱吉の落胤であるといわれるが、実際には疑わしい。


江戸の町は犬だらけ。江戸の人々は犬の食べ物全てをまかなわされる。

1687年、5代将軍綱吉は母の桂昌院や護寺院の僧隆光らのすすめで「生類憐れみの令」を定めました。生き物を大切にすることによって、儒教や仏教の教えを政治にしめそうとしたのですが、しだいに極端なものになっていった。例えば犬の喧嘩には犬が怪我をさせぬように水をかけること。犬をひかぬように牛車は気をつけること。など次々に命じられ、人々は犬にとても気をつかった。


幕府の政治は少しずつみだれ、将軍に気に入られた人だけが力を持つ

幕府の政治は少しずつみだれ、中心になるべき人々が力を失い、人々の迷惑になる法令でも、それをやめさせるようにいえる人がいなかった。


その他

「大樹寺に収められている歴代将軍の位牌は、将軍の身長にあわせて作られている」という説があり、そこから「身長が130センチ強しかなかった」という『低身長症説』が出てきている。綱吉の位牌の高さは124センチであるが、増上寺に葬られ改葬の際に遺骨の身長が計測された5人の将軍については遺骨と位牌のサイズの差は5センチ以内に収まっており、綱吉は低身長症(軟骨無形成症)であったことが考えられる、という説がある。


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