二宮尊徳
出典: Jinkawiki
←前の版 | 次の版→
二宮尊徳
天明7年7月23日生誕~安静3年10月20日死去。
江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家。通称は金次郎。ただし、正式な表記は金治郎。尊徳は一般的には「そんとく」と読んでいるが、正式な読みは「たかのり」。
天明7年7月23日神奈川県小田原市に誕生。幼少期から、教養のある父に教育を受け育つ。不幸にして異常天候ために、川の氾濫が度重なり、荒廃した田畑の回復もかなわず、両親は心身疲労であいついで死去、一家離散という事態に陥る。金治郎は、叔父の元に預けられ農業に励むかたわら、逆行にもめげず、稲捨て苗や菜種を空き地に植えて収穫し、「積小為大」の経済原理を体得する。そして毎年その収益を増やして田畑を買い戻し、20歳で生家の再興に成功する。その後、その手法を生かして、発展させ親近者の家政再建など、地主経営を行いながら地自身は小田原にでて、武家奉公人しても働いた。奉公先の小田原藩主家老服部家でその才能を買われて服部家の財政立て直しを頼まれ、見事に成功させた。たちまち金治郎の名前は小田原に広まり、窮乏救済のための金融互助組織「五常講」を設立、さらに藩の年貢徴収用の斗枡の改良統一を達成する。やがて、そのすぐれた発想を実践力が、藩主大久保忠真から見込まれ、財政難に苦しむ 藩主の身内である旗本の野州(栃木県)桜町領の財政再建を託される。金治郎はこれを契機に村おこし、国づくりの仕事にまい進することになる。桜町領再建は苦節10年の難事業であったが、その成功はたちまち近隣の注目を集め、諸領諸村からの仕法の要請が相次ぎ、復興事業や飢饉救済に多忙を極める。金治郎の仕法は、水を確保するために用水路やため池などを作ったり、なおしたりし、他の村から移ってきた人に応援を行い、小さな子供のいる家にはお金や米を与えた。また投票により働き者を表彰して、金子(きんず)や農具を与え、農業への意欲を高めた。農民が家を建て直したり、屋根を直したりする時にお金を与え、凶作の時を考えて長雨や冷害に強いひえを作らせ食べ物を確保させた。これらの報徳仕法は報徳思想に基づいている。報徳思想とは、「至誠」「勤労」「分度」「推譲」の4つの考えをよりどころにしている。「至誠」とはまごころであり、報徳思想の土台となるもの。「勤労」とは熱心に働けば、人間は生きていくために必要なものを手に入れることはできる。しかし逆に働かなければ、食事さえまともにとることはできない。人は働くことによって向上することができるという考え。「分度」とは、自分の置かれた位置や立場をわきまえ、それぞれにふさわしい生活をすることが大切で収入に応じた一定の基準(分度)を決めて、その範囲内で生活することの大切さの教えである。4つ目の教えは「推譲」。これは将来に向けて生活の中で余ったお金を家族や子孫のために貯めておいたり(自譲)、他人や社会のために譲る(他譲)ことと意味している。つまり金治郎は、自分の利益や幸福を追求するだけの生活ではなく、この世のものすべてに感謝して、これに報いる行動をとることが大切で、それが社会と自分のためになるということを説いて政策を行った。金治朗は安政3年70歳でその生涯を終えるまでに、600か村以上の立て直しを行ったといわれている。 また、金次郎というと、小学校などに多く建てられている薪を背負いながら本を読んで歩いている像が有名だが、1881年発行の「報徳記」の中で、薪を背負いながら本を読んで歩く記述はあるが、薪を拾って売り、その金で勉強をしたのは事実だが、このような姿で実際に歩いていた事実はないとされる。また、事実確認がはっきりしない点や児童が像の真似をすると交通安全上問題があることから、1970年代以降、校舎の立替時などに除々に撤去され、像の数は減少傾向にある。
参考資料
報徳博物館 http://www.hotoku.or.jp/