ヴェルサイユ体制

出典: Jinkawiki

2009年1月28日 (水) 23:11 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

ヴェルサイユ条約を基礎とする第一次大戦後のヨーロッパの国際秩序。 敗戦国再起の防止、再分割後の植民地の維持などを内容としたが、1930年代のナチスの台頭によって事実上崩壊。 1919年1月連合国とドイツの講和会議がパリで開かれ、同年6月ヴェルサイユ条約が調印された。パリ講和会議は戦勝27カ国の代表によって開かれたが、アメリカのウィルソン、イギリスのロイド・ジョージ、フランスのクレマンソーらが事実上の主導権を握った。ヴェルサイユ体制は、第一次世界大戦の反省に立って恒久平和と国際協調を目指し、ウィルソンの14ヵ条にみられるように「民族自決」を原則としていたが、アジア、アフリカには適用されず、戦勝国の利害によって国際紛争が続発した。日本の対華21ヵ条に反対する中国の抗議や、エジプト、インドの独立の要求は無視された。 国際紛争の種は他にもあった。イギリスは、大戦中にアラブ民族に対してオスマン=トルコからの独立を約束するフサイン=マクマホン協定を結びつつ、もう一方でユダヤ人にパレスティナでの領土を約束するバルフォア宣言を結ぶという矛盾した政策をとって、将来に禍根を残していた。ギリシアは、セーヴル条約により領土を割譲させられ主権も制限されたトルコに侵入し領土拡張を図ったが、ケマル=パシャは、ギリシアを撃退してトルコ共和国を建設した。「未回収のイタリア」の一部として、フィウメ問題がイタリアとユーゴスラヴィアの間でおこり、さらにドイツの賠償不履行を理由に、フランスがルールを保障 占領するという事件がおこった。 戦後の混乱が収まると、国際協調の気運が高まる。 1921年、米大統領ハーディングの提唱により、極東、太平洋地域の国際秩序を討議するためワシントン会議が開かれ、各国の主力艦保有比率が決定され、中国に関する九カ国条約、太平洋に関する四カ国条約が締結された。 1925年には、ラインラントの非武装化、国境不侵略などを定めたロカルノ条約が調印され、ドイツは国際連盟に加盟した。 1927年には、補助艦の制限を協議するジュネーブ会議が聞かれたが、合意に連せずに解散したため、1930年再度ロンドンで軍縮会議が開かれ、ようやく米、英、日の保有率が決定された。 1928年には、仏外相ブリアンが提案し、米国務長官ケロッグが提唱して調印された不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)が成立し国際紛争解決の手段としての戦争放棄を約したが、実際の効果は薄かった。 ●ヴェルサイユ条約(対独) ①領土割譲(アルザス、ロレーヌ……・仏  ポーランド回廊→ポーランド) ②海外植民地放棄 ③ドイツ軍備制限 ④ラインラント非武装化 ⑤賠償金の支払い

ヴェルサイユ体制を構成するその他の条約 サンジェルマン条約(対オーストリア) ヌイイ条約(対ブルガリア) トリアノン条約(対洪) セーブル条約(対土) ヴェルサイユ体制の問題点 対独復讐論に基づく天文学的賠償金額の設定→ナチスの台頭を招く誘因 国際連盟へのアメリカ不参加とソヴィエトの排除→ファシズムの対外侵略を許す誘因 中東問題の原点 イギリスが、フサイン=マクマホン協定でアラブに対トルコ参戦させるためオスマン=トルコからの独立を約束しつつ、もう一方でユダヤの経済協力を得るためにバルフォア宣言でユダヤ人にパレスティナでの領土を約束するという矛盾した政策をとったことが、ユダヤ人によるイスラエル建国強行後のアラブ人との紛争を一層複雑にした。(英、仏、露は、サイクス=ピコ協定で、トルコ領の分割とパレスティナ国際管理を約束していたし、大戦後はパレスティナはイギリスの委任統治領とされ、両陣営ともイギリスにだまされたことになる)


参考:http://note.masm.jp/%A5%F4%A5%A7%A5%EB%A5%B5%A5%A4%A5%E6%C2%CE%C0%A9/


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成