石田三成

出典: Jinkawiki

2009年1月29日 (木) 02:02 の版; 最新版を表示
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  石田三成(1560~1600)は安土・桃山時代に活躍した武将、大名である。豊臣政権の五大老の一人であった。天下分け目の大決戦であった関が原の戦いで東軍率いる徳川家康を相手に西軍の大将として戦った。

生涯

 ・近江国坂田郡石田に生まれる。15歳のときに当時、織田信長の家臣だった羽柴秀吉と出会いその家臣となった。以後秀吉に従い、各地で転戦したが、その中でも本能寺の変で信長が明智光秀に殺されたときに中国地方にいた秀吉が大返しで京まで帰ってきた「中国大返し」が有名である。

 ・この「中国大返し」をして山崎の戦いにおいて光秀を倒した秀吉は信長の後継者争いとして同じく信長の家臣であった柴田勝家と対立。賤ヶ岳の戦いが勃発した。この戦いにおいて、これまでは軍略の面で活躍してきた三成は大谷吉継とともに軍功をあげた。そして、1586年に大坂・堺の奉行となる。翌年、秀吉が九州を平定すると戦後、博多町奉行に任命された。

 ・1590年に小田原攻めに参加し、秀吉が天下統一を果たす。後に近江佐和山の城主となった。1592年に秀吉の命令のもと朝鮮出兵を行う。その際に肥前名護屋で大谷吉継らとともに日本軍の総奉行に就任する。1596年に明の使節が来日、講和交渉をするが決裂に終わり、再度出兵をするが1598年の秀吉の死とともに朝鮮から引き上げた。

 ・秀吉が死ぬとその後継者争いが激しくなる。なかでも徳川家康はその座を狙っていた。そんな家康を三成は前田利家とともに家康を監視していた。が利家が1599年に亡くなると三成と仲の悪かった加藤清正らから襲撃をうけ命が危ぶまれた。その後、家康が会津の上杉征伐に出陣。その後ろを着いて家康を倒そうと三成は出兵を決める。その後Uターンをしてきた家康と関ヶ原でおちあい、西軍の石田三成、東軍の徳川家康で戦が勃発。途中までは西軍が有利であったが、徐々に東軍に押され、最後は小早川秀秋の裏切りが火に油を注ぎ西軍が敗北した。三成は敗走したが一週間後に近江古橋村で捕らえられ、その後六条河原で処刑された。

逸話

 ・賤ヶ岳の戦いが起きる前、秀吉は柴田勝家との同盟を断った上杉家と同盟を結ぶ。その後賤ヶ岳の戦いが終わってからは三成が上杉家との交渉を任されることになるがそのときに出会ったのが直江兼続だった。この時から双方は親しくなったといわれている。たとえば三成は上杉景勝と直江兼続を大坂城に呼んで秀吉と会わせたりした。このような経緯があったため上杉家は関ヶ原の戦いの際には西軍に見方したといわれている。

 ・行政の面で力を発揮していた三成は同じ豊臣側でも武闘派だった福島正則や加藤清正とは反りが合わなかった。だが加藤清正との間に関してはそれまでは普通の関係だったものが朝鮮出兵を行ったさいに清正は現地で大暴れをしていたが三成が日本で戦況を見ているなどした態度の違いや明との講和のさいにこの両氏が揉めたことが原因で険悪になったという説もある。

 ・関ヶ原の戦いで敗れその後捕まり、市中を引き回された際、三成は「水が飲みたい」と言った。周りの衛兵は「水はない。柿ならあるぞ。」と近くの木から柿をとって三成に与えたが、三成は、「柿を食うと痰が出るので嫌だ」と断った。衛兵たちは「これから死ぬ人間が痰の心配をしてどうする」と笑ったが、三成は「下郎。英雄とはどんな境遇に陥ろうとも、生き延びる望みを捨てぬ。だから儂は痰を嫌うのだ」と言い放った。この言葉は三成の性格を表すものであった。

<参考>http://kakutei.cside.com/photo/bushou/mitunari.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90


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