皇女和宮
出典: Jinkawiki
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生立ち
和宮親子内親王は、弘化 3年(1846年)閏 5月10日未刻(午後2時頃)、仁孝天皇第八皇女として生まれた。 母は典侍橋本経子(議奏権大納言橋本實久の娘)、のちの観行院である。仁孝天皇は多くの后妃との間に七男八女を儲けられたが大半は夭逝して、成人したのは三人のみ。姉の敏宮と兄、のちの孝明天皇、そして和宮であった。 和宮が生まれた時は、父仁孝天皇はこの世になく、和宮誕生間近の弘化3年1月26日にお風邪がもとで病死なされている(御年47歳)。御誕生後、七夜に当たる閏 5月16日に命名の儀が行われ、御兄帝により和宮と命名された。 和宮は6歳の時、有栖川宮家の長男熾仁親王(天保6年2月19日生)と婚約、以来学問を有栖川宮家で学んだ。熾仁親王は17歳、早婚の当時としては、そろそろ配偶者を迎える年頃でありながら6歳の婚約者は有難迷惑であったに違いないが、 孝明天皇の妹ということで受け入れたと思われる。
江戸入り
公武合体論が盛んになると、その要として孝明天皇の妹、皇女和宮の14代将軍徳川家茂への降嫁が浮上した。既に有栖川宮熾仁親王と婚約していた和宮は、猛反対したが、幕府側は有力公卿に金品をばらまき、和宮の母の実家である橋本家を脅迫したりと、猛烈な運動を展開した。追い詰められた和宮は降嫁を承諾した。 1862(文久2)年2月11日、婚礼した。家茂と和宮は共に17歳と若く、睦まじい新婚生活を過ごした。しかし、子供は生まれなかった。
天璋院と和宮の対立
大奥に入った当初、初対面の席で天璋院が上座に座り、和宮は下座で座布団無しだったので、泣いて口惜しんだという。 その話はすぐに京都に伝えられ、九条関白がそれを図解入りで天皇に報告し、怒った天皇が京都所司代を通じて詰問するなど、なにかと騒ぎになった。 和宮のほうも、京都からの土産の包み紙に「天璋院へ」と書き捨てにするなど、お高くとまっていた。 武家風と御所風の違いから、嫁姑の争いが生じたのではないか。
参考
・八巻孝夫 「新説 戦乱の日本史 第6回」 2008 小学館