惣(惣村)
出典: Jinkawiki
鎌倉時代末期になると末期なると、畿内周辺に農民たちの自治的村落が出現する。これを「惣(惣村)」と呼ぶ。
この惣村では「一致団結」がなにより重視される。ゆえに村では掟が定められ、違反者は厳罰に処せられた。 たとえば、、村共有の蕨粉を盗んだ未亡人とその子ども2人が、村人たちに捕えられ、殺された。この話を聞いた領主の九条政基は、「なにも殺すことはないだろうに」と日記に書き付けているが、たかが蕨粉であっても、村落の秩序と結束を乱した母子の罪は、村人たちにとっては許し難い裏切りだったのである。それほど惣村の結束のは固いものがあった。
惣村は、番頭・沙汰人・おとな(乙名・長)と称するリーダーで構成される宮座によって運営された。だが、重要な事項については、村人全員による「寄合」(集会)が開かれ、ここで最終決定がなされた。
農民たちがこのような自治組織をもつにいたった理由は、一つに領主の不当な要求に集団で対抗することにあった。領主への年貢は、村で一括して納入し、もし領主が過分に税を強要してきたり、不正に農民から搾取しようとした場合には、一致団結して抵抗した。その方法は、主に次の3つである。