惣(惣村)

出典: Jinkawiki

2009年1月29日 (木) 14:39 の版; 最新版を表示
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鎌倉時代末期になると末期なると、畿内周辺に農民たちの自治的村落が出現する。これを「惣(惣村)」と呼ぶ。

この惣村では「一致団結」がなにより重視される。ゆえに村では掟が定められ、違反者は厳罰に処せられた。 たとえば、、村共有の蕨粉を盗んだ未亡人とその子ども2人が、村人たちに捕えられ、殺された。この話を聞いた領主の九条政基は、「なにも殺すことはないだろうに」と日記に書き付けているが、たかが蕨粉であっても、村落の秩序と結束を乱した母子の罪は、村人たちにとっては許し難い裏切りだったのである。それほど惣村の結束のは固いものがあった。

惣村は、番頭・沙汰人・おとな(乙名・長)と称するリーダーで構成される宮座によって運営された。だが、重要な事項については、村人全員による「寄合」(集会)が開かれ、ここで最終決定がなされた。

農民たちがこのような自治組織をもつにいたった理由は、一つに領主の不当な要求に集団で対抗することにあった。領主への年貢は、村で一括して納入し、もし領主が過分に税を強要してきたり、不正に農民から搾取しようとした場合には、一致団結して抵抗した。その方法は、主に次の3つである。

①「強訴」 全員で領主のもとに押しかける

②「逃散」 耕作を放棄して逃げてしまう

③「土一揆」 武力蜂起する


戦国時代に入ると、戦国大名による一円支配が強まり、惣村の自治権が次第に奪われていった。中には戦国大名の承認の下で制限された自治を維持する惣村もあった。最終的には、豊臣秀吉による兵農分離(刀狩)と土地所有確認(太閤検地)の結果、惣村という結合形態は消滅し、江戸時代に続く近世村落が形成していったとされるが、惣村の持っていた自治的性格は、祭祀面や水利面などを中心に近世村落へも幾分か継承され、村請制度や分郷下における村の統一維持に大きな役割を果たしたと考えられている。


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