徳川家康

出典: Jinkawiki

2009年1月29日 (木) 14:45 の版; 最新版を表示
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目次

出身・今川の捕虜の頃

家康は、天文11年12月26日、松平広忠を父とし水野氏於大の方(おだいのかた)を母として三河岡崎城内で生まれた。幼名は竹千代。名は元信、元康、のち家康。松平氏宗家は、三河加茂郡の松平郷の土豪で15世紀の後半に矢作川の下流域に一族庶流を進出させた。16世紀初めには広忠の父清康が岡崎城主となって加茂・額田(ぬかた)・碧海(あおみ)・幡豆(はず)の西三河4郡に勢力を振るったが、内訌(ないこう)から清康が暗殺されて以来衰え、広忠のころは隣国の今川氏の庇護下に置かれていた。ところが於大の方の兄の刈谷城主水野信元が今川氏に背いて尾張(愛知県西部)の織田信秀に通じたので、広忠は於大の方を離別し、竹千代は3歳で母と別れることとなった。6歳のとき人質として今川氏の駿府に送られる途中、織田方に捕らわれ安祥(あんじょう)城(安城市)で2年間を過ごした。8歳のとき人質交換で今川氏に取り返され、19歳までを「三河の小せがれ」とよばれながら駿府で過ごすが、安倍川の印地打(いんじうち)(石合戦)を見て勝負を予言し将来の片鱗をみせたのはこの間のエピソードである。14歳のとき元服し今川義元の一字を与えられて元信と名のり、16歳で今川氏一門の娘(築山殿)と婚姻。翌1558年(永禄1)初陣。このころに元康と改名。翌々年上洛のため西上を開始した義元の命令で、織田方に包囲された大高城に兵粮を搬入。世にいう大高城兵粮入れである。直後の桶狭間の戦いでの義元の頓死(とんし)により、今川氏から独立した元康は西三河の支配を回復し、信長と同盟した。

織田一族との結び付き

1563年(永禄6)、子の信康と信長の娘との婚約を成立させた元康は家康と改名、今川氏との絶縁を天下に宣言した。この年に発生した三河一向一揆は、家康主従をも分裂させる深刻なものであったが翌年には鎮圧。かえって家臣の把握を強固にした家康は東三河をも制圧し三河一国の大名となり、66年勅許を得て徳川と改姓し従五位下三河守に叙任された。そのころは信長と同盟関係にあった武田信玄が今川氏の領国駿河に侵入したのを機に、68年家康は遠江を占領、70年(元亀1)遠江引馬(ひくま)(浜松)城に移って本拠とした。同年の近江(滋賀県)姉川の戦いに信長を助けて出陣したが、このころには信長・家康ともに信玄との同盟を解消し、家康は信長のために身をもって武田の西上を防ぐ役割を担い、大きな犠牲を払わされた。72年の三方ヶ原の戦いで信玄に惨敗し、75年(天正3)の長篠の戦いで信玄の子勝頼と戦って勝利し、さらに79年信長の命により築山殿との間にもうけた長子信康を自殺させ築山殿を処刑したことなどがその主要なものである。82年信長の武田氏攻略作戦では駿河方面を分担させられ、同氏滅亡後に恩賞として駿河一国を与えられた。2か月後の本能寺の変のとき、わずかの供回りで堺に滞在中であった家康は、信長の死で治安の乱れた近畿地方を横断して伊勢白子(三重県鈴鹿市)に急行し海路岡崎城に帰った。この帰路の家康を守ったのが伊賀(三重県)の土豪たちで、後年服部半蔵など伊賀者が幕府に取り立てられたのは、このときの功によるとされている。帰国した家康は、信長死後空白地帯となった甲斐・信濃に出陣し、年内にはこの2か国を手中にした。


こうして駿・遠・三・甲・信5か国を領有した家康は、信長の遺子信雄(のぶかつ)を助けて、中央で頭角を現した羽柴秀吉と対抗し、1584年小牧長久手の戦いで秀吉軍を破ったが、半年後に和議が成立。家康の次男於義丸(おぎまる)(秀康)が秀吉の養子となり、86年秀吉の妹朝日姫が家康の正室となって浜松に行き、また秀吉生母の大政所が人質として岡崎に下向した。なお大政所は、家康が大坂城で前年に関白となった秀吉に謁して帰国したのを機に、岡崎滞在1月足らずで大坂に帰され、朝日姫は90年京都聚楽第(じゅらくだい)で没している。以後の家康は、秀吉政権下の一大名として行動し、79年に7か条の定書(さだめがき)を領内の村々に公布して年貢や夫役について規定し、また翌年にかけて5か国に太閤検地を行うなど秀吉の方針に沿って民政を整備した。

五大老の筆頭

1590年(天正18)秀吉の小田原征伐に先鋒として参陣した家康は、北条氏滅亡後の関東で250石を与えられ、8月1日に江戸城に入った。これ以来「八朔(はっさく)」は家康江戸打入の特別の記念日となった。翌年には九戸政実(くのへまさざね)の乱鎮定のため陸奥岩手沢(宮城県大崎市)に出陣。翌92年(文禄1)の文禄の役では、渡海はしなかったが肥前名護屋(佐賀県唐津市)に駐留、1年半にわたって江戸を留守にした。秀吉の渡鮮を諫止(かんし)するなど、朝鮮出兵そのものには慎重論者だったようである。95年、家康・毛利輝元・前田利家など5人の大大名の連名で、大名間の私婚、徒党の禁止などに関する秀吉の意向を記した文書2通が諸大名に通達された。後の五大老の原型であるが、家康はその筆頭であった。このころから伏見に常駐に近い状態となり、翌96年(慶長1)正二位内大臣。98年8月秀吉は遺児秀頼と天下の政事を五大老と五奉行に託して死んだが、その筆頭の家康の最初の課題は、朝鮮人民の抵抗ですでに泥沼に落ち込んでいた慶長の役を終わらせることにあり、それは動員された諸大名や人民の願いでもあった。秀吉の死を秘して撤退作戦を年内にほぼ完了させた家康は、武士と人民を戦争に動員することで体制の維持強化を図った五奉行の一人石田三成に反対する諸大名の結集の中心となった。

1600年の「天下分け目」といわれた関ヶ原の戦いは秀吉の跡目争い、秀頼に対する心情、大名間の感情的軋轢(あつれき)などが絡み合って起きたものであるが、実は戦いによって問われたのは、秀吉時代の絶え間ない戦争への動員路線を続けるのかどうか、という問題であり、この意味で、勝敗は戦いの前からすでについていたのであった。この戦いに勝利した家康は翌年2月ころまでに所領の没収、減封(げんぽう)・加封(かほう)を伴う諸大名の全国的な大移動を断行した。譜代(ふだい)と外様(とざま)を巧みに組み合わせる江戸時代の大名配置の原型はこのときにできあがり、これによって、戦争を起こすことなく軍事的緊張を維持し、体制を強固にすることが可能となった。以後、諸大名の余分なエネルギーは普請役(ふしんやく)への動員によって吸収されるが、その最初は02年の京都二条城の造営であった。しかし、このころの家康の政治上の立場は、当時のある史料が「内府(だいふ)(家康)公、世間を後見」と述べているように、亡き秀吉に依託された五大老の筆頭という限界にとどまっていた。

征夷大将軍になり、江戸幕府開設

1603年(慶長8)2月12日、家康は伏見城で任将軍の宣旨を受け、全国の武家を指揮統轄する源頼朝以来の伝統的な権限を手中にした。3月に始められた江戸市街地造成を手始めに家光のころまで続いた間断ない普請役への諸大名の動員は、この権限に基づいている。そして、江戸に幕府を開いた。また諸大名が江戸に屋敷を構え参勤して登城し、将軍に拝謁することを強要したが、これは将軍への服属を形に表す意味をもつ重大な行為であった。さらに翌々年、秀吉に倣って国絵図と御前帳(検地帳)の提出を諸大名に命じたことは、将軍への服従が単に私的な主従関係によるのではなく、国家的な義務であることを明確にする意味をもっていた。

同じ1605年(慶長10)家康は将軍職を秀忠に譲って大御所となり、2年後に駿府城に引退した。秀忠に将軍としての権威をつけさせ、家康死亡時に予想される御家騒動を未然に防止する意図によったと考えられる。家康の側近には武士だけでなく、林羅山、金地院崇伝、中井正清、茶屋四郎次郎、アダムズ(三浦按針(あんじん))などの学者、僧侶、大工頭梁、商人などさまざまの分野の人物が集まっており、家康は彼らを顧問として政策を決定し、事柄によっては彼らを取次ぎとして意思伝達にあたらせていた。これらの側近の第一人者が本多正信・正純父子であったが、大御所家康は子の正純を駿府に、父の正信を江戸の秀忠側近に置き、重要な決定はこの2人を通じて秀忠に伝えられ、施行される枠組みをつくった。14、15年(慶長19、元和1)の大坂冬・夏の陣も家康の意思で起こされ、秀忠以下の全大名が家康の統率のもとに参陣した。大坂の陣の原因としてよく知られている方広寺の鐘銘事件は単なるきっかけにすぎず、真の原因は、江戸への参勤を拒否するなど、関ヶ原の戦い後一大名の地位に落とされた豊臣秀頼が幕府への服従を拒否した点にあった。

大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした家康は引き続いて京都にとどまり「禁中並公家諸法度」「武家諸法度」を制定したのち駿府に帰り、元和2年4月17日、75歳で没した。法号安国院。久能山に葬り、のち日光山に改葬。死の直前に太政大臣に任じられている。これらの法度は、公家、僧侶、学者などに内外の古典を収集・調査させ、家康自身も彼らから講義を受けて成文化したもので、日本古来の、とくに頼朝以来の武家政権の伝統のうえに、幕藩体制を位置づけることを主眼としており、天皇も皇室に伝わる宗教的・儀式的知識を身につけて国家を安泰にする役割を要請されている。後世、享保の改革に際して8代将軍吉宗が「権現様の時代を再現する」と唱えたように、死後に天皇から「東照大権現」の神号を勅授され日光東照社(宮号宣下は1645年)に祀られた家康が、江戸時代を通じて政治的源泉となりえたのも、この「法度」に示された天皇の性格に起因している。反面、この点に江戸幕府のアキレス腱があり、朝幕問題が幕府崩壊の原因となったのはやむをえないところであった。


参考文献

1、日本史小辞典  山川出版社

2、日本史の全貌  青春出版社


  人間科学大事典

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