長州奇兵隊
出典: Jinkawiki
長州奇兵隊
長州奇兵隊は、藩士や武士からなる部隊ではなく、農民など武士以外の庶民からなる混成部隊である。奇兵隊は、文久3年(1863)の下関戦争ののち、高杉晋作(1839~1867)らによって組織された。この隊は、高杉や木戸孝允らが学んだ松下村塾の藩主である吉田松陰の影響を受けている。
徳川家茂が孝明天皇に対し、攘夷決行の期限とした文久3年(1863)以来、長州藩は下関から外国艦を砲撃した。しかし、フランスやアメリカからの反撃を受け、長州藩は惨敗し、圧倒的な軍備の差を見せつけられた。そこで高杉晋作は、藩主から下関防衛を命ぜられ、「奇兵隊」を結成する。この奇兵隊は高杉晋作の構想によって「陪臣・軽率・藩士を撰ばず、同様に相交り」として武士階級に隊構成の重点をおく一方で、身分に関係なく、個人の力量によって入隊を判断した。また、武士階級に限らず、「志」があれば入隊が認められるという画期的な体制をとっていた。こうした編成構想には、吉田松陰の思想が深く関係している。松陰は西洋の歩兵隊の採用を説き、おもに足軽以下農民を充てるべきだと説いた。隊を統制するためには身分差別なく規律節制のある庶民隊のほうが、銃砲中心の近代戦に適すると考えていた。また、二百年に及ぶ太平の世に慣れ、堕落した武士たちには頼れないとする考えも理由の一つで、そうした“れっきとした”武士の中には、外国艦からの攻撃をうけて逃げ出すものも多かったという。幅広く入隊を募集した結果、結成した奇兵隊は武士が50%、農民が40%、商人その他10%という割合であった。身分制度にとらわれず、さまざまな身分の人間が混成された隊であったが、それぞれ袖印によって階級は区別されていた。編成当初は兵力増強のための臨時義勇軍としてであったが、その後その戦闘力の高さから、大村益次郎によって藩正規軍として認められた。そのため隊士には藩庁から給料が支払われ、隊舎で寝起きをして訓練に励んだという。高杉晋作総長を頂点にして、西洋のすぐれた軍事技術を取り入れ、銃器や大砲が使用された。
長州藩は元治元年(1864)の池田屋事件に始まり、禁裏に火を放ち会津藩と衝突するなどして敗北している(禁門の変)。これにより朝敵とみなされた長州藩には追討の朝命が下り、長州は相次ぐ戦争の窮地に立たされる。奇兵隊は長州藩の一緒隊として第一次薩長戦争で奮闘した。長州藩は第一次長州戦争で敗北。そののち脱藩していた高杉が長州藩に戻り、藩政の主導権を握ることになる。長州藩が松下村塾出身の桂小五郎や高杉晋作らに支配されると長州藩の方針は倒幕に定まり、第二次長州戦争でも奇兵隊が起用された。その後、戊辰戦争でも、山形有朋にしたがって越後方面に出撃した。
奇兵隊は戊辰戦争終了後、大村益二郎の徴兵制度によって持て余されるようになった。もともと奇兵隊は攘夷思想のもとに結成されたのだが、明治維新が成り、戦争時程の兵士は必要なく、強引に集められた多くの奇兵隊をはじめとした諸隊が不要となったのである。徴兵制度によって漏れた農民の多くは、武士や軍人になることを夢見て入隊したものも多かったのだが、解雇され、行き場を失い、挙句の果てに奇兵隊の反乱事件へと発展してしまった。これを受けた明治政府は奇兵隊を武力鎮圧し、130名あまりを処刑した。
参考文献
http://www10.plala.or.jp/yageki/db/KIHEITAI.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E5%85%B5%E9%9A%8A
長州奇兵隊 一坂太郎 中公新書
高杉晋作 梅溪昇 吉川弘文館