高台院
出典: Jinkawiki
←前の版 | 次の版→
高台院(1548~1624 生誕に関しては他にも諸説がある)は戦国時代から江戸時代初期を生きた豊臣秀吉の正室である。彼女の呼び方としては他にも「北政所」や「ねね」、「おね」などがあった。なお「北政所」という名称は本来、摂政関白の正室に贈られるものであったが、秀吉の正室であったねねにこの名が贈られると以後は、専ら彼女のことを指す語になった。
生涯
・尾張国に生まれ、浅野長勝の養女となる。1561年に木下藤吉郎(後の秀吉)に嫁いだ。これ以降、織田信長の下で従え、後に天下統一を果たし、彼が亡くなるまで秀吉を支えた。
・二人の間に子供は生まれなかったのでねねは親類縁者を養子や家臣として養育した。中でも福島正則、加藤清正は特に有名である。
・1582年に山崎の戦いで明智光秀を撃破。長浜にいたねねは秀吉とともに大坂城に移り、1585年に秀吉が関白に任官されると先述のように「北政所」と称した。
・秀吉が亡くなってからは尼となり京都三本木の屋敷に隠棲した。その後1605年に秀吉の冥福を祈り高台寺を建立。大坂の役で豊臣氏が滅んだ後も江戸幕府の保護を受けた。1624年に死去した。
人物像
・政略結婚が普通であった時代の中でねねは秀吉とは恋愛結婚だったといわれている。当時、信長の配下だった秀吉と浅野家の養女だったねねは身分が低かったため、自由な恋愛ができたとされている。
・ねねは秀吉の正室でお互いの夫婦仲も良好であったが先述のように子供には恵まれなかった。このことで秀吉からも一時、強くたしなめられた時期があったりしたこともあり、側室で秀吉との間に子供がいた淀君とは対立関係にあった。
・この事もあり、関ヶ原の戦いでは福島正則や加藤清正がいた東軍を支持していたとされるが、近年では石田三成とも親しかったとされ、西軍寄りの姿勢を保っていたとされている。
<参考>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%B0%E9%99%A2#.E7.94.9F.E6.B6.AF