民本主義
出典: Jinkawiki
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大正期のデモクラシー思想。この語は日露戦後にすでに使用されており、とくに『萬朝報(よろずちょうほう)』記者の茅原華山(かやはらかざん)が1912年(明治45)より「貴族主義・官僚主義・軍人政治」の対立概念として同紙上、および翌13年(大正2)自ら創刊した雑誌『第三帝国』で使用した。東京帝国大学の保守的教授井上哲次郎や上杉慎吉も、帝王は臣民の福利を重んずべしとの趣旨で、民本主義を唱えている。この語に新しい生命力を吹き込み、一時代を画する思潮をつくりだしたのは、新進の東大教授吉野作造であった。彼は『中央公論』1916年1月号に発表した「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」において、欧米の政治概念「デモクラシー」(の意味内容)から、主権在民を意味する「民主主義」は君主国たる日本には適用できぬとして排除し、政治の目的は民衆の利福にあり、政策の決定は民衆の意向に従うべしとの意味だけ残して、「民本主義」と名づけた。彼は引き続き『中央公論』を本拠として、民本主義を実現すべき政治体制として、民衆→衆議院→内閣→天皇の拘束関係を基本とする立憲君主制を構想し、言論・集会・結社の自由、普通選挙制・政党内閣制の採用と、枢密院・貴族院・軍部など絶対主義的機構の弱化を主張した。民本主義は社会問題に適用されるとき、労働者の団結権やストライキ権を認めよの主張に、また対外政策に適用されるとき、武断的大陸侵略否定、朝鮮同化政策反対、国際協調維持の主張に転化した。ほぼ同様な説を唱えた著名な論客として、長谷川如是閑(はせがわにょぜかん)、大山郁夫、福田徳三らがあり、美濃部達吉、佐々木惣一らの天皇機関説も民本主義と姉妹関係にある。民本主義は天皇制と帝国主義との直接の対決は回避したが、それらに対する有効な現実的批判として機能した。民本主義は日露戦後の民衆の政治的自覚に基づく大正デモクラシーの風潮と、第一次世界大戦後の世界的な国際協調気運に適合し、知識人・労働者層に歓迎され、ジャーナリズムを風靡(ふうび)した。米騒動後の学生運動と普選運動はその直接的影響のもとに出発し、労働者・農民・被差別部落民の諸運動もこの思想の援護によって発展した。1925年の普通選挙法制定と、政党政治の確立はその現実の成果である。関東大震災前後から、民本主義によって発展の条件を与えられた社会主義が急速に進出し、大山郁夫らがその陣営に移る状況のなかで、しだいに影響力を失い、満州事変以後のファシズム化のなかに姿を消した。
参考文献
1、日本史小辞典 山川出版社
2、日本史B用語集 山川出版社
3、日本史の全貌 青春出版社