55年体制
出典: Jinkawiki
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日本において自由民主党と社会党が二大政党として君臨し、政治を行っていた体制。1955年にこの構図が成立したためこう呼ばれる。
成立背景
サンフランシスコ平和条約の締結は、国内の政治勢力の再編促した。戦犯服役者の公職追及の解除という、いわゆる逆コース政策によって、戦時中の政治家が復帰してきて、それまで6年間政治をリードしてきた自由党の吉田首相打倒の動きが激しくなった。反吉田勢力は日本民主党を結成し、その総裁鳩山一郎が1954年12月に組閣し、改憲(憲法改正)と自衛力の強化をねらう姿勢を明らかにした。鳩山ら改憲派は、憲法9条を廃止して再軍備をねらい、一方護憲派は、9条が是か非でも守ろうとしていた。 1955年の総選挙で日本民主党が第一党になる。革新新党側はこれに対抗するために、対講和・日米安保条約の批准をめぐって左右両派にわかれていた社会党が、両派合わせて改憲阻止に必要な3分の1の議席を獲得し、社会党の統一を果たして改憲や再軍備などの戦前に戻ろうとする動きに反対した。 革新勢力の統一に危機感を持った日本民主党と自由党の両保守党も合同して、自由民主党を結成する。この結果、議会は安定多数の3分の2を握る与党。自由民主党と、3分の1を占める野党・社会党が正面から対立する体制がしばらく続いた。
55年体制の崩壊
背景の第一は、米ソ冷戦構造の崩壊から続く89年のソ連・東欧圏の解消があった。米ソ冷戦下で、日本の支配層は、アメリカの軍事的保護の下に繁栄を追求し、自民党は、アメリカを代弁した。アメリカは、日本に安定した親米政権を望み、自民党政権の腐敗を大目に見た。日本国民は、社会党には異議申し立て勢力としてわずかながらの存在価値を認めていた。 ソ連・東欧圏の解消は、反共という一点でまとまっていた自民党とその支持勢力から求心力を失わせた。アメリカ政府にとって、自民党政権の維持は絶対に必要な事項ではなくなり、敵はむしろ成長した日本となった。一方でまがりなりにも社会主義を目指していた社会党は、頼るべき目標を失い、政策の独自性が消えていった。
第二には、多くの批判にもかかわらず、政・官・業界の癒着による腐敗が次々と露見し、自民党の資金源であった財界からも、反省する声が上がりだし、外からの批判も強まったことである。
第三には、国民の意識の変化である。繁栄が続いた結果、伝統的な自民党の支持基盤である農村部が変化し、地縁血縁関係が薄れた。都市生活者にも、会社や労働組合のために行動するよりも個人生活を楽しもうとする生き方が広がってきた。こうした層の投票行動が、選挙結果を左右する時代となった。 これらのことが挙げられる。
そして1993年には衆議院選挙で自由民主党は大幅に過半数を割り込む結果となった。また、日本社会党も惨敗した。 それに対し、自由民主党離党者による新生党・新党さきがけ、細川護熙が代表であった日本新党、さらに公明党・民社党が躍進、宮沢内閣は総辞職に追い込まれた。野党は日本新党の細川を首相とすることで合意、自由民主党との連携を模索した日本社会党・新党さきがけも受諾し、1993年8月に細川内閣が成立。ここに55年体制は崩壊し、実に38年ぶりの政権交代となった。 但し、55年体制の定義の違いにより正式な体制崩壊の時期には諸説あり、上記の細川政権発足した1993年8月の他、自民党と社会党が連立して自社さ連立政権が発足した1994年6月、衆議院第二政党が社会党に代わり新進党となった1994年12月もあげられる。
*参考文献*
・「日本の歴史」前澤桃子著 ナツメ社 2001
・http://www.tim.hi-ho.ne.jp/hebiguchi/p_renritsu1.htm
・ウィキペディア