白川郷
出典: Jinkawiki
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白川郷は、岐阜県飛騨の西部、大野郡荘川村、白川村などを含む庄川上流域一帯の飛騨山地を指す。
秘境として知られていたが、現在では観光や電源開発が盛んである。 飛騨山地は豪雪地帯であり、白川郷の合掌造り集落は、茅葺の大きな切妻合掌造りの家屋が象徴的である。 自然との共生、長い間の人々の知恵が生んだ独特の山里景観が評価され、1995年に白川郷及び五箇山の合掌造り集落が世界遺産(都市・集落の文化遺産)として、ユネスコに登録された。
歴史
庄川最上流の旧白山神社からは、平安時代後期の古鏡が出土している。 また、1183年の倶利伽羅峠峠の戦いで敗れた平家の落人が住み着いたという伝説もある。 1265年、親鸞の弟子である嘉念坊善俊が鳩谷(現在の白川村)に道場を開き、浄土真宗の本格的な布教を始めた。 その後、1460年に内ヶ島将監がこの谷に入り、1475年に全白川郷を支配した。 しかし、同氏は1585年の大地震で、帰雲山の崩壊とともに突然滅亡した。 江戸時代には金森氏領となり、天領となった所と一部照蓮寺領として続いた所とがある。 明治~大正までは、交通の便が非常に悪かったため秘境となり、厳しい自然条件のもとに生まれた、特色ある大家族制度が残存した。 第二次世界大戦後は、電源開発が急激に進んだ。 村々の間を流れる庄川は水量が豊富であるため、下流から上流に向かって小牧、祖山、小原、成出、椿原、御母衣などのダムや発電所が次々と建設された。 ダムの建設に伴い、白川郷荘川村の4地区が水没することになり、住民は立ち退き・離村を余儀なくされた。 村人が長年住んでいた合掌造りの民家も水没し、ごく少数の合掌造り民家だけが各地に移築されたのである。 その一方、不便であった道路は改良され、ダム補償によるスキー場やゴルフ場、別荘地の建設や役場など公共施設の改築も行われた。
人々の生活
白川郷や五箇山では、江戸時代後期から明治時代末期ごろまで、特徴ある大家族制が行われていた。 大家族制度は、家長が絶対の権限を持ち、家長と相続人たる長男にのみ正式な結婚が認められた。 そのため、次三男以下の兄弟姉妹、おじやおばは分家を持つことも、正式な結婚も認められず、焼畑耕作や養蚕に従事しながら生活していたのである。 高齢者や使用人も含めると、一軒に20~30人もが共同生活を営んでいた。 この大家族制の背景には、過酷な自然状況、耕地の少なさが考えられる。 そのため、大きな家族集団が協力して焼畑耕作や養蚕などに従事しなければ、生活が成り立ちえなかったのである。 こうした家族と生業のあり方が、長大な合掌を用いて匂配の急な大きい茅葺屋根を作り、2段から4段にわかれた養蚕のための屋根裏と、特有の間取りを持つ合掌造りの民家を生み出した。
合掌造りの構造
合掌とは、一般的に屋根を支える構造を指すことばであるが、白川郷の「合掌造り」は、民家の地域的特徴を示す形式に付けられた名称である。 構造は、屋根を支えている三角の小屋組部分と、その下の部屋割りされた一階の軸組部分の二つに分けられる。一階の軸組は大工、上部の小屋組は村民の手によって作られ、同じ一件の家屋でも、上と下では全く異なった方法で建てられている。 特徴としては、①屋根裏の広いこと、②屋根の匂配が急なことの2つがあげられる。 ①の特徴である広い屋根裏は、主に養蚕の場所として利用されてきた。 屋根には大茅が用いられ、30年に1度の割合で、葺き替え作業が行われる。
屋根は、太い合掌桁によって支えられている。合掌桁の下端は、独楽の軸先のように削ったコマジリと呼ばれる部分を合掌梁の穴に差込み、いくつもの合掌桁が立ち並ぶ。この合掌桁が構成する正三角形が、重心を左右へと分散し、安定した構造を保つ。 合掌造り家屋では、釘が1本も使われていない。 これは、コマジリなどの柔軟性に富んだ木材の使用により、弾力性と耐久性を併せ持つという、自然に逆らわない工夫が施されているためである。
行事
白川郷では毎年9月・10月に、白川郷の5箇所の神社でどぶろく祭りが行われる。山の神様に感謝と祈りを捧げるための祭礼であり、 獅子舞や雅楽人を従え、神輿行列が集落を練り歩く。その後、神社の酒蔵で独特の製法で醸造されたどぶろくが参詣者にふるまわれる祭礼である。 また、毎年冬には、国の重要文化財「和田家」を中心に計29棟でライトアップが行われ、雪景色と茅葺屋根の幻想的な景観を楽しむことが出来る。
参考文献
奈良大学文学部世界遺産を考える会(編) 鎌田道隆(著) 2000 世界遺産学を学ぶ人のために 世界思想社
渡邊静夫(編) 上島正徳(著) 1988 日本大百科全書12 小学館
ユネスコ世界遺産センター(監修) 1998 ユネスコ世界遺産4―東アジア・ロシア 講談社