阿倍仲麻呂

出典: Jinkawiki

2009年1月30日 (金) 01:58 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

阿倍 仲麻呂(あべ の なかまろ、文武天皇2年(698年) - 宝亀元年(770年))は奈良時代の遣唐留学生。唐で科挙に合格し、唐朝諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせなかった。中国名を晁衡という。 なお、麿は麻呂の別の漢字表記である。

孝元天皇の皇子、彦太忍信命の血を引く。698年阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。717年(霊亀2年)多治比県守が率いる第8次遣唐使に同行して唐の都、長安に留学する。同期の留学生には吉備真備や玄昉がいた。科挙を受験して合格したので[1]、725年洛陽の司経局校書として任官し、728年左拾遺、731年左補闕と官位を重ねた。 仲麻呂は李白や王維と親交があったという。

733年、多治比広成(県守の弟)が率いる遣唐使が来唐したが、さらに唐での官途を追求するため帰国しなかった。翌年帰国の途に就いた遣唐使一行はかろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破した。この時帰国した吉備真備と玄昉は第1船に乗っていて助かった。副使・中臣名代の第2船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻ってきた。名代一行を何とか帰国させると、今度は崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕らえられ、中国に脱出してきた遣唐使判官・平群広成一行4人が長安に戻ってきた。平群広成らは仲麻呂の奔走で渤海経由で帰国することができた。

752年、藤原清河率いる遣唐使一行が来唐した。すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は清河らとともに翌年帰国を図り、王維は「秘書晁監(ようかん:仲麻呂の現地名)の日本国へ還る」の別離の詩を詠んだ。しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流される。このとき李白は彼が落命したと思い、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠み、友を悼んだ。幸い、かって平群広成らが流されたのと同じ漂流ルートであり、船は安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。今回は中国領内だったので、755年には長安に帰着している。この年、安禄山の乱が起こり、藤原清河の身を案じた日本が渤海経由で迎えを寄越したが、唐朝は行路危険であるとして清河らの帰国を認めなかった。

仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、左散騎常侍(従3品)から鎮南都護・安南節度使(正3品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。761年から767年まで6年間もハノイの安南都護府に在任した。最後は潞州大都督(従2品)を贈られている。日本への帰国を叶えられることなく、770年に72歳の生涯を閉じた。


引用文献

・Wikipedia

・杉本直治郎『阿倍仲麻呂伝研究』1940,育芳社


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成