大阪万博

出典: Jinkawiki

2009年1月30日 (金) 08:25 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

日本万国博覧会(にっぽんばんこくはくらんかい、英:Japan World Exposition)は、大阪府吹田市の千里丘陵(約350ヘクタール)で、183日間の会期(1970年3月14日 - 9月13日)で行われた日本で最初の国際博覧会。別名:大阪万博、EXPO'70。

主催は、財団法人日本万国博覧会協会(当時、現在の独立行政法人日本万国博覧会記念機構)。博覧会の名誉総裁は皇太子(当時)明仁、名誉会長は内閣総理大臣(当時)佐藤栄作。


「人類の進歩と調和」をテーマとし、日本を含む77カ国と四つの国際機関が参加した。総入場者数は、6,421万8,770人と万博史上最多。さらに万博史上初めて黒字となった。東京オリンピック(1964年)以来の国家的イベントであり、多くの企業・研究者・建築家・芸術家らがパビリオン建設や映像・音響などのイベント制作・展示物制作に起用され、高度経済成長を成し遂げアメリカに次ぐ経済大国となった日本の象徴的な意義を持つイベントとなった。また大阪市など会場周辺都市でも地下鉄建設などの大規模開発が進められた。一方、第二次大戦以来の規模となる芸術家らの国家イベントへの動員は芸術界内部で批判があったほか、同じく1970年に予定されていた日米安全保障条約改定に関する議論や反対運動(70年安保闘争)を大イベントで国民の目から隠すものだとして、大学生らによる反対運動も行われた。

テーマ館の一部として岡本太郎意匠による「太陽の塔」が作られた。現在も残され、万博記念公園のシンボルとなっている。 シンボルタワーの「エキスポタワー」は菊竹清訓の設計で、閉幕後も残され展望塔として観客を集めていたが老朽化により1990年に閉鎖され、2002年夏から2003年春にかけて撤去工事が行われ現在はなくなっている。現在、残されているパビリオンとしては、他に鉄鋼館(もともと現代音楽などの音楽公演を行うパビリオンであり最新の音響設備を備えており、その方面での再利用の計画があった)がある。 世界の美術品を集めた万国博美術館は開催後、国立国際美術館として再利用され、隣接する万国博ホールは多目的ホールとなった。しかし老朽化により2004年閉鎖され、ともに解体された。 アメリカ館ではアポロ計画で持ち帰られた月の石が展示され、話題となる。(1969年、アポロ12号のお土産) 民間企業のパビリオンとしては、三菱未来館、日立グループ館などが人気を集めた。 松下館で展示されたタイムカプセルは当時の各種物品を詰め、同じものが二つ大阪城公園に埋められている。一つは5000年後の6970年に開封予定。もう一つは内容物の状態確認のため、2000年以降100年ごとに開封される事になっており、2000年に当初予定通り掘り出して最初の開封が行われ、内容物は同公園内にあった大阪市立博物館で展示された。 万博会期後はほとんどのパビリオンが取り壊され跡地は公園化されたが、パビリオンの中には引き取られ移設されたものもある。オーストラリア館は閉幕後、三重県四日市市に移築され、オーストラリア記念館となっている。同様に、スカンジナビア館も北海道石狩市(当時は石狩町)に移築された(現在の藤女子大学花川キャンパスの辺りで、付近のバス停にも「スカンジナビア館」と表記されていた)が、所有者の倒産に伴い数年で閉鎖され、1980年代前半には解体されたと思われる。また三菱未来館の一部は宝塚ファミリーランドへ移設されたがこれも、のちに老朽化のため解体された。さらにフジパン・ロボット館は愛知県にできた愛知青少年公園(後に愛知万博の長久手会場となる)に移設。建物は老朽化により1993年に取り壊されたが、ロボットの一部はその後も保存され愛知万博でわんパク宝島・ロボットステーションに展示された。大阪・愛知の2つの万博で共に展示されたのはこのロボット以外にはない。現在も長久手会場の跡地に整備された愛・地球博記念公園の愛知県児童総合センター(わんパク宝島・ロボットステーションで利用された建物を改装)内に展示されている。


人気パビリオンでの数時間の行列など「大量の人による混雑」が伝えられており、特にアポロ11号が持ち帰った「月の石」を展示したアメリカ館の行列は延々続き、途中であきらめて他の館へ行く人も多かった。またその異常な混雑ぶりから、一部では万博のテーマをもじって『人類の辛抱と長蛇』と揶揄されたという。

愛称の「万博(バンパク)」は、この博覧会の正式名称の「万国博覧会」を略したものだが、その後の国際博覧会の愛称にも引き継がれている(科学万博・花の万博・愛知万博)。

中華民国が「中華民国」として参加した、最後の国際博覧会でもある。

大阪万博の公式マークは、日本の国花である桜をかたどったもので、デザインは大高猛(大高は他に日清カップヌードルのロゴや初代「のりたま」のパッケージなどのデザインを手がけている)。当初は西島伊三郎デザインの、鉄アレイの上に丸の乗った形で、東西世界の融合などを表しているとの説明だったが、シンボルマーク発表の記者会見の直前に万博協会会長の石坂泰三が「これでは日本が世界の上にあぐらをかいている」と激怒し、一蹴した(その日の会見は中止)。そして桜のマークとなった。五つの花びらは五大州すなわち世界を、中央の丸は日本のシンボル日の丸を、周囲の白い部分は発展への余裕と伸びようとする意図を表している、と説明された。

会場跡地はビジネス副都心・研究都市など様々な開発案があったがどれも明確な計画ではなく、最終的には公園として再整備され万博記念公園となっている。

現在でも多くの自然文化施設、文化施設、スポーツ施設、レジャー施設が所在し、今も多くの市民に親しまれている。

引用文献

・wikipedia

・日本万国博覧会記念機構(http://www.expo70.or.jp/)

paru


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成