日米修好通商条約2
出典: Jinkawiki
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日米修好通商条約調印 概要 安政5年6月19日、大老井伊直弼を首班とする幕府政権は、朝廷の許しを得ないままアメリカの軍艦ポーハタン号の上で、アメリカとの修好通商条約を調印した。日本が欧米列強の植民地化を防ぐための処置であったが、これに反対する朝廷の意向を無視する形であったため、この問題はこの後の幕府と朝廷の関係に遺恨を残すものとなるのである。 二つの問題 大老に就任した井伊直弼は、最初に二つの問題の解決に乗り出す。一つは家定の次の将軍をめぐる紀州慶福派と一橋慶喜派の抗争に結論を出すことである。井伊直弼は紀州派によって支えられているため、当然慶福を将軍としようとし、一週間後の5月1日には、将軍家定によって慶福を後継ぎにする命が下された。もう一つの問題は、アメリカとの調印問題である。ペリー初来航時とは変って、幕府内部には外国との貿易を許可しないわけにはいかないだろうという考えが浸透していたのである。特にこの年は、公使として来航したハリスが、イギリスやフランスの武力によるアジアの植民地化の実態を伝え、アメリカと平和的に条約を結べば、イギリスとフランスもそれと同等の条約を結ぶことになるだろうという説得が功を奏していたのである。そのため、貿易開始もやむなしという意見が大半を占めることになったのである。問題は、朝廷に条約調印の許しを得ることだけであった。しかし、孝明天皇は極端な外国人嫌いであったため、神の国である日本に卑しい外国人を住ませることになってしまっては、伊勢神宮や先祖に対して申し訳ないと考えていたのである。すでに安政4年に老中堀田正睦が朝廷工作に失敗し条約調印問題は暗礁に乗り上げる形となったのである。井伊直弼に課せられていたのは、この問題をどう打開するのかということだったのである。 問題の激化 もともと大政は幕府に任されているため、条約調印に朝廷の許可は必要のないものであった。それにもかかわらず、許可を得ようとやっきになったところにすでに幕府の権力が揺らぎ始めていたと考えてもいいだろう。このため、徳川斉昭、松平春獄らの一橋派の大物が条約調印について井伊直弼を責め、さらに慶喜も登城し井伊と面会するなどの事態になるのである。それに対して井伊直弼がとった行動は安政の大獄という政治弾圧だったのである。 参考文献 幕末維新ガイド まるわかり日本史