小早川秀秋
出典: Jinkawiki
2009年1月30日 (金) 13:08 の版; 最新版を表示
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小早川秀秋
安土桃山時代の武将。幼名辰之助。通称金吾。左衛門佐、権中納言。豊臣秀吉の正室高台院の兄木下家定の三男として生まれる。秀吉の猶子となったあと、丹波亀山10万石を領し、羽柴秀俊と名のる。1594年(文禄3)小早川隆景の養子に入る。同年11月中国に下向して三原城(広島県三原市)に入り、毛利輝元の従妹を妻とした。翌年家督を嗣ぎ、隆景から筑前1国、筑後の大部分、肥前2郡33万6000石を譲り受け、隆景は三原に隠居、かわって秀秋は筑前名嶋城に移った。97年朝鮮に出陣。釜山浦城の守将となり、また蔚山城の救助に活躍し、帰国。その後秀吉の怒りに触れ越前北庄に移封されようとしたが、徳川家康のとりなしで筑前にとどまる。99年秀吉の遺命で復領し、筑前・筑後52万2500石を得る。翌年関ヶ原の戦いで西軍として伊勢口を守り、伏見城を攻めたが、9月の関ヶ原決戦時には東軍に応じた。戦功により家康から備前(びぜん)、美作(みまさか)において50万石を与えられ、岡山城に移り住んだが、慶長7年21歳の若さで死去した。秀秋には嗣子がなく、備前・美作は収公され、小早川本宗家は断絶した。
参考文献 yahoo 大事典