ヘンリー
出典: Jinkawiki
パトリック・ヘンリー(Patrick Henry)は、舌頭火を噴く烈しい弁舌で名弁護士の名声をほしいままにし、「自由を与えよ、さもなくば死を与えよ」の名文句をはいて植民地での対英抵抗運動を煽り、アメリカに独立をもたらした。
農民から名弁護士へ
ヘンリーは、ヴァージニア州で農園を営むスコットランド出身のジョン・ヘンリーの息子として生まれた。ヘンリーは少年時代ヴァージニアの森や川といった自然に親しんでいた。その後、牧師をしていた伯父と教養豊かな父親の教育で、ラテン語、ギリシャ語さらには数学を習う。 ヘンリーはサラ・シェルトンとの結婚の時、双方の両親から6人の奴隷つきの300エーカーの農園を買い与えられたが、その仕事に向いていなかったので、2年後にはその農園を売却してしまった。その後、弁護士となり成功した。頭脳明晰にして弁舌さわやかというよりは、むしろ舌頭火を噴く烈しい弁舌に長けていたからである。弁護士の口頭試問に合格すると、3年も経たないうちに、ヘンリーは1185件もの訴訟を処理する忙しさとなり、しかもそのほとんどの訴訟において勝訴を勝ち取った。
教区牧師の訴訟申立て事件
27歳のときには、パトリック・ヘンリーの名は当たり一円に知れ渡るようになり、有名な教区牧師の訴訟申立て事件の弁護士となった。この事件は、ヴァージニア植民地議会が牧師の給与が煙草で、しかも煙草1ポンドを2ペンスという一定の比率で換算して、その金額が通貨で支払われるべきことを、ヴァージニア植民地法のとして制定したことに対する、異議申し立ての訴訟であった。当時タバコは市場において6ペンスで売買されていたので、ヘンリーは英本国政府が植民地に必要かつ適切な法律を制定していないとして、市場価格との格差を1ペニー以内に抑えるべきことを主張した。やがてヘンリーは、ヴァージニア植民地における英国の支配に異議を唱える者たちの代弁者となった。ヴァージニア植民地議会の議員として、植民地を抑圧するための、印紙条例等の一連の条例に対する反対運動を指導することになった。
「自由を与えよ、さもなくば死を」
ヘンリーの最も有名な演説は、1775年3月23日に行われたもので、ヴァージニアは英国の支配に異議を唱えるNew England地方の抵抗運動に参加すべきことを訴えて、特に有名な次の発言を演説の結びとした。“I care not what course others may take, but as for me, give me liberty or give me death! ” とくに最後の「自由を与えよ、さもなくば死を与えよ」という発言は今日にいたるまで記憶される名文句となっている。 独立戦争勃発後はヴァージニア邦憲法の起草に参画し、1776年から1779年までヴァージニア邦の初代知事を務めた。 ヘンリーは、1787年に呈示されたアメリカ連邦憲法に異議を唱えた。それというのも独立後の各州の主権が脅かされ、人民の権利も脅かされるのではないかと危惧していたので、その受け入れに難色を示していたからである。アメリカ憲法修正第一条から第十条――人民の基本的人権に関する宣言――権利章典が採用されるにあたっては、ヘンリーの強い影響力の行使があったといえる。 権利章典が取り入れられてからは、ヘンリーは憲法の支持・擁護に勤め、やがてはアメリカ連邦政府発足後に結成され、強力な中央政府の必要性を主張する連邦党の支持者へと成長した。