藤野先生(作品名)

出典: Jinkawiki

2009年1月30日 (金) 16:27 の版; 最新版を表示
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「藤野先生」は魯迅(ルーシュン,1881-1936)が執筆した短編小説である。この作品は、筆者の魯迅が1902年4月から1909年7月(21歳~28歳)までの足掛け8年の青年時代を日本留学生として過ごした日々について、そして作者が青春時代に出会った生涯恩師と仰ぐ「藤野厳九郎」先生との思い出を書き綴ったものである。この作品は魯迅があまり少ない日本時代の回想を語った文章のひとつである。この作品は、1926年10月12日に厦門(アモイ)で執筆され、「莽原」12月10日号に発表された。


目次

概要

※ネタバレ注意!以降を読む方は、ネタバレの可能性を了解してください。

1)東京から仙台へ

上野公園へ花見に行けば、弁髪を頭上高くぐるぐる巻きにして学帽を載せた「清国留学生」のグループに出会い、留学生会館へ本を買いに行けば奥の洋間でドスンドスンとダンスの講習・・・、魯迅はそんな東京に見切りをつけて、仙台医学専門学校へ行くことにした。東京をたつと、日暮里を通り過ぎるが、日暮里という名前に仙台は市ではあったが、大きくはなく、冬になるとひどく寒く、まだ中国人の学生はいない感じだったようだ。

2)仙台医専での出来事

①藤野先生との出会いと一部の同胞からの嫌がらせ

魯迅は医学を学ぶために仙台医専へ入学した。仙台医専では、変人で知られる解剖学教授の藤野厳九郎から毎週ノートを赤ペンで添削するという、懇切な指導を受け、魯迅は感激する。そのおかげで魯迅は落第する学生もいたという試験で、百余名中、中ほどの成績で落第をすることなく2年生へ進級することができた。しかし、ノート添削の際に藤野先生が出題箇所にしるしをつけていたという試験問題漏洩のうわさが広まり、「汝、悔い改めよ」というトルストイが『新約聖書』から引用した言葉を記す匿名の手紙までが届く始末だった。魯迅は藤野先生にそのことを報告する一方で、友人の旧友たちもあわせて抗議したので、このうわさは立ち消えになった。

②中国の国民性を疑う時(幻灯事件)~医学を捨てる決意

2年生に進級した魯迅は、細菌学の授業で思いがけないくらいに悲しいものを目にする。当時医学校では講義用に幻灯写真を用いていたのだが、授業時間が余ったときなどは日露戦争の「時局幻灯」を映して学生に見せていた(このころは日露戦争で日本がロシアに勝ったということで日本中がその勝利に浮かれていた)。そこでは、日露戦争のニュースで、ロシア軍スパイを働いた中国人が中国人観衆の見守る中、日本軍兵士によって首を切られる場面が流れており、観衆は万雷の拍手と歓声をあげたのだ(幻灯事件)。の。文章の中ではこのように書かれている。「いつも歓声はスライド1枚ごとにあるが、私としてはこの時の歓声ほど耳にこたえたものはなかった。のちに中国に帰ってからも、囚人が銃殺されるのをのんびり見物している人々がきまって酔ったように喝采するのを見た―ああ、施す手なし! だがこのときこの場所で私の考えは変わった。」魯迅は、今必要なのは医学ではなく、国民性の改革だと考えを変え、医学を捨てて仙台を離れる決意をしたのだった。

③藤野先生との別れ

2年生の終わりのときに魯迅は藤野先生を訪ね、医学の勉強をやめ、仙台を離れることを告げた。藤野先生は何か言いたげだった様子だが、無言のまま悲しそうな顔をした。その顔をみて魯迅はとっさに「ぼくは生物学を学ぶつもりです。先生に教わった学問はきっと役に立ちます。」とその気もないのに慰めの意味でうそを付け加えた。しかし、「医学として教えた解剖学など生物学にはあまり役に立つまい」とため息をつき、裏に「惜別」と記した自分の肖像写真を与え、魯迅にも写真をくれないか、と頼んだが、手持ちがなかったためあげることができなかった。そこで、藤野先生はあとで写真を送ってほしい、手紙で近況を知らせてくれ、何度も言ったのである・・・。それから数年後・・・・・・。


「藤野先生」がうつしだした「真の人間」の関係の像

伊藤(1983)によると、魯迅の「藤野先生」には、藤野先生の素朴な人柄と、同時に書かれている日本人学生による心無き事件との間に、魯迅が信じた国籍を超えた「真の人間」の関係の像がうかんでいるという。その裏側は差別意識と、幻灯事件での「犯人」を取り巻く群衆が喝采するイメージだという。


1900年代の日本の留学生事情

戦前の日本も留学生をたくさん受け入れる国であったようだ。当時の中国人留学生だけであっても、1万人はいたといわれている。もちろん魯迅もその中の一人である。では、なぜそのように留学生をたくさんうけいれたのか?それはおそらく、日本を知り、親日派になってもらいたかったという狙いがあったのだろうといわれている。しかし、この「藤野先生」の作品にあるように、当時の日本でも偉人差別の風潮があり、そのねらいは実現されなかったという。


参考資料

藤井省三(2002)「魯迅辞典」三省堂

伊藤虎九(1983)「魯迅と日本人」朝日新聞社

柴田武ほか編(2000) 「高等学校現代文2」 三省堂


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