ルネッサンス
出典: Jinkawiki
ルネサンスは、「再生」を意味する語で、14-16世紀にかけて、古代ギリシャ・ローマ文化の復興を目指す、とくにイタリアでさかんになった文化運動を指す。
イタリア諸都市では、毛織物工業、地中海貿易や金融業などで富を蓄えた有力商人層が政治的にも大きな力を持つようになり、主要な都市国家での多くは、15世紀には事実上の君主支配となった。 アヴィニョンからローマに帰還した教皇も、不在中に荒廃したローマ市の再建に努めた。 16世紀には、ローマにブラマンテの設計をもとんしたルネサンス様式のサン・ピエトロ大聖堂が建設され、そのシスティナ礼拝堂はミケランジェロのフレスコ画で飾られている。 このように、市政の実権を握った実力者や、王、教皇、有力ギルと諸団体や裕福な市民が、イタリア・ルネサンス芸術の保護者となる。
ルネサンス期には、目に映る世界すなわち神の作った世界を出来るだけリアルに表現されることが追求された。 ブルネレスキが発見し、マザッチョが絵画に応用した線遠近法の手法は、アルベルティが1435年の「絵画論」で論じ、それをラテン語とイタリア語で出版したことで広まった。 彫刻でも、古典作品に倣って、調和とプロポーションは重視された。 建築では、古典古代の建築様式の復興が目指されたルネサンス様式が盛んとなった。 文学では、ペトラルカの「カンツォニエーレ」など古典作品に倣った詩や散文が書かれた一方で、ダンテの「神曲」をはじめとして俗語での著述も盛んとなった。 さらに古典文献の研究を進め、古典の教養を身に付けた人文主義者らの活動は、その後の思想の形成に大きな影響を与えてゆく。
しかし、諸都市間の対立と抗争は外国勢力の侵入を招いた。 とくに15世紀末から50年以上にわたってイタリアはハプスブルク家とフランス国王の精力争いの場と化した。 このような危険と混乱の時代を生きたフィレンツェ出身のマキャベリは1513年、「君主論」において「狐の鋭敏さと獅子の勇敢さ」を兼ね備えたイタリア出身の君主の登場を期待した。 カスティリオーネは、君主の宮廷に出仕する者の心得を説いた「宮廷人」を書いた。この作品は1528年に出版されて以降、各国語に翻訳され、ヨーロッパのベストセラーとなった。 時代は共和政治都市から君主制領域国家の優位へと向かっていったのである。
1559年にカトー=カンブレジ条約によって、イタリアにおけるスペインの覇権が確認されると、ヴェネツィアとローマを除いてイタリア諸都市の政治的独立は失われた。 それと共に、イタリア・ルネサンスもまた、力を失っていった。
ルネッサンスは「再生」を意味するが、再生したのは芸術だけではない。
フランスの16世紀は人間の再生、すなわち人口増大の時代でもあった。
中世末に激減した人口は、百年戦争の終結後増加に転じ、1560年代は大ペスト以前の水準、1800万を回復している。
荒廃した農村には新しい労働力が生まれ、穀物生産の拡大と、ブドウ、オリーブなど農産物生産の多様化が実現する。
その一方で織物業、鉱物・冶金業、製紙業、印刷業、商業、金融業の発達と王権の伸張とを背景に、都市が著しい躍進を見せる。
都市は、商工業と行政の中心としての機能を強め、人口を吸い寄せる。
15世紀末から16世紀中ごろまでにパリの人口は18万から30万へと膨張した。
ルネッサンスの影で、社会の底辺をなす人々が窮乏化してゆく、という現実があった。 16世紀フランス経済を特徴づける物価、とくに穀物価格の高騰にあった。 人口増大による需要の増大に、穀物生産が追いつかなかったことが原因である。
参考文献
ヨーロッパ史への扉 晃洋書房
世界の歴史 ヨーロッパ近世の開花 中央公論社 長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之 1997