米騒動
出典: Jinkawiki
←前の版 | 次の版→
米騒動 1918年に起きた、米の値段急騰による暴動事件のことである。
暴動発生
1918年7月23日、富山県東部の魚津町の妻たち数十人が海岸に集合して沖合漁船の「伊吹丸」に、北海道へ荷物を運ぶ米の積み出し作業をやめさせ、町役場に押し掛け、米屋の打ちこわしを始めた。これを地元の新聞社が取り上げ後日、「細民婦女の一揆」の見出しで報道した。
漁師一日の米の消費量は1.5㎏も食べていて、その値段が上がるのは主婦たちにとって、死活問題だった。1918年1月に一升24銭だったのが、9ヶ月後には2倍の45銭に跳ね上がった。当時の漁師の一日当たりの稼ぎが50銭程だったので、その生活が大変苦しくなってしまったことが分かる。
なぜ起きたのか まず、第一次世界大戦(1914-1918年)の中ごろから、日本は欧州への軍事物質の輸出とアジア諸国への製品進出(それまで欧州市場だったが、戦争で忙しくなったため日本の入る隙が出来た)でかつてないほどの好景気と同時に物価が上昇し始めた。輸出品製造で重工業が発達、工場や炭鉱では大量の労働者が必要になり、農村から都市へ人々が流れ、肝心の農家の人手が足りなくなってしまった。それに加え、1917年に起きたロシア革命へのシベリア出兵の話を耳にした大商人たちは米の買い占めに走ったため、価格が急騰してしまったのである。
騒動のもたらしたもの はじめは小さな漁村の騒動だったが、同年8月10日には名古屋、京都に飛び火し、以後1道3府39県にまたがり、述べ70万人が参加するという全国へ広がる運動へ発展した。女性だけでなく、農・工・漁民や炭鉱労働者、被差別部落の人もいた。政府は軍隊を出動させてその鎮圧にあたったが、当時の寺内内閣は責任をとって総辞職した。その後、原敬が政党内閣(衆議院の第1党の政党を中心に組織された内閣)の首相となり、結果的に米騒動は、その実現に大きく関与したこととなった。原首相は爵位(貴族の階級を表す称号のこと)持たない初の衆議院議議員の首相だったため、「平民宰相」呼ばれ、人々から歓迎された。
参考文献 『朝日ジュニアブック日本の歴史』朝日新聞社 p.198~p.200 『説細日本史』 山川出版社 p.301