エディソン
出典: Jinkawiki
トマス・アルヴァ・エディソン(Thomas Alva Edison)。日本では“エジソン”と呼ばれることが多い。
電信機、白熱電灯、蓄音機など、現代の科学技術や産業の発展につながる数多くの発明をした技術者。「発明王」「万人のための点灯夫」と呼ばれ、探究心、不屈の精神で知られる。
目次 |
出生と幼年時代
エディソンは、1847年2月11日、オハイオ州ミランで生まれた。父は材木商、母はカナダの牧師の娘で、教師もしたことのある教養深い女性であった。信念のために努力する不屈の精神を祖先から、企業心や仕事への意欲・才能を父から受け継ぎ、好奇心と探究心あふれる子どもであった。病気で遅れて8歳を過ぎて小学校に入学するが、並はずれた才能は学校教育に合わず、3ヶ月で退学。その後母の指導で、いわゆる英才教育を受ける。 歴史、科学、文学等の難しい書物を読破し、独学で実験に凝った。数学を苦手とし、ニュートンの「プリンキピア」にはてこずったという。
社会での労働経験
社会で働くことの大切さも学んだエディソンは、好きな実験の費用を稼ぐため、早朝から夜まで働き、空き時間にデトロイトの図書館で勉強し、列車内のスペースで実験をする勤勉さであった。実験に励む一方、新聞やキャンディーも売ってもうける商売との両立は、後の実生活に密着した発明と事業化という人生哲学をよく物語っている。 15の時、「週刊ヘラルド紙」を車内で印刷し、各駅にあらかじめ電信技士に頼んでニュース内容を打電して宣伝していたため、すぐに売り切れた。ニュースの内容と表現の明確さ、宣伝効果の利用が評価される。当時電信が実用化され、幸運にも電信技術を習得する機会を得、その後各地を遍歴してさらに技術を磨き、アメリカ一のスピード技師といわれるようになった。
発明家としての歩み
ボストンのウェスタン・ユニオンで電信技師をしているころ、便利な機器を作り発明の才を認められていた。生涯に得た1000以上もの特許の第一号を申請したのはこの時期で、弱冠21歳であった。それは投票記録機で、議会の投票の際に時間を短縮でき、記録もできるものであった。特許取得後ワシントンに売り込みに出かけたが、当時の議会には受け入れられなかった。しかしこの失敗により、発明とは人々が利用するものでなければならないという教訓を学び、この姿勢を終生貫いた。 株式通報機、電報印刷機等を開発したが、万能印刷機の発明により大金を獲得した。1869年ニューヨークにこの製造工場をつくり、さらに実用タイプライター、印字電信機、二重電信機なども発明した。
メンローパーク研究所と発明品
エディソンの全盛期の活動は、1879年29歳の時に建てたメンローパークの工場で行われた。ニュージャージー州の静かな環境の中で、失敗から多くのことを学び、問題解決まで集中心を発揮するというメンローパーク精神をエディソン自ら率先して実施した。発明のために研究所を作り、製品開発をして生産する。この工場全体が研究と生産の結合体であり、電球を発明すれば発電機も、発電所も作って拝殿方式まで考え、電気機関車の研究からは鉄道まで工場内に建設してしまった。エディソンは実用化に喜びを見出し、自分を科学的な職業発明家であると常々語っていた。 この工場からは、電話の炭素送話機、蓄音器に次いで、電灯の研究に乗り出した。「メンローパークの魔術師」が炭素を用いて45時間輝き続ける電球を作ったのは1879年10月21日のことであった。この日は今も、「エディソン記念日」とされている。 この研究所には世界中から多くの逸材が集まった。ここに見る研究体制の制度化、産業研究の概念は先駆的であり、科学史上高く評価されている。
ウェストオレンジ研究所と世界大戦
1887年にはウェストオレンジ研究所を作り、円盤式蓄音器を、次いでキネトグラフという映画を作り、研究所内に最初のスタジオを作って、映画と蓄音機を組み合わせたキネトフォンを発明し、本格的映画時代への幕を開いた。電灯会社はは、ジェネラル・エレクトリック会社に合併され、鉱山の経営に失敗したりもするが、エディソン式蓄電池の発明に成功する。
平和を愛するエディソンではあったが、第一次世界大戦がはじまると請われて海軍顧問委員会委員長となり、戦争のために科学の面で協力した。
晩年のエディソン
1929年、フーバー大統領も出席して白熱電灯発明50周年記念祝賀会が開かれ、ヘンリー・フォードによってメンローパーク研究所の再現などが催された。この2年後、82歳のエディソンは席上で倒れ、他界した。
参考文献
エリス著/伊佐喬三訳 『エジソン―発明の天才』 東京図書 猿谷要/編 『アメリカ史重要人物101』 新書館