藤原道長
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藤原道長
藤原道長(966~1027)は藤原兼家の子で5男として生まれる。最高の官位を占める藤原氏の中でも頂点に立つ者が、道長氏の「氏の長者」として大きな権力をもった。甥の藤原伊周(これちか)と関白を争って勝ち、995年に内覧(平安時代以降、太政官から天皇に奏上する文書を、摂政・関白または宣旨を受けた大臣が前もって読んで処置すること)となる。 彰子・妍子・威子・嬉子の4人の娘を一条・三条・後一条・後朱雀天皇・後冷泉3代の外戚として30年にわたって、権勢を振るう。1016年に摂政、1017年に太政大臣となり、藤原氏の全盛期をあらわした。晩年には、法成寺を造り、御堂関白と言われた。
道長が台頭してきた経緯 について
父、兼家の没後も、中関白と呼ばれる兄の道隆が、一条天皇の関白として政権を握っていたので30年間くらいは目立つ存在とはなっていなかった。しかし、道長が権大納言に在任していた長徳元年(995)、道隆が没して次の兄の右大臣道兼も没した。さらに同年中に、左大臣源重信や大納言藤原朝光らも没してしまった。こうして、上のほうにいた人たちが次々と没してしまった中で、道長は、姉で一条天皇の生みの親でもあった東三条院(詮子)のはからいによって、内大臣藤原伊周を超えて、一挙に右大臣に昇進して、関白に准じた役割をもつ内覧の地位についたのであった。
これに不満をもったのは、伊周である。伊周は、姉の定子が一条天皇の中宮(のちの皇后)であった関係から、天皇との外戚関係をもっていた。けれども、伊周は翌2年(996)に女性問題から、弟の隆家とともに花山法王を誤って射撃するという事件を引き起こして、失脚してしまった。この事件を長徳の変と呼ばれる事件をきっかけに道長は安定した政治運営をすることができた。当時は、急速に生活・文化上の和様化が進行した時代であり、紫式部が『源氏物語』を書いた頃でもあるけれど、その文化育成や保護のパトロン的役割を演じたのは、道長だった。
摂関政治 10~11世紀の平安中期、藤原氏が外戚として摂政・関白を独占して、国政を左右した政治。摂関の職は良房と基経が、その例を開いて、安和の変後に常置した。11世紀前半の道長と頼通が全盛期で、院政によって衰えた。天皇権の代行、太政官制の独占、政治が私権化・形式化した。
関連
・『栄花物語』は、藤原道長の全盛期をたたえることが中心で華やかな宮廷生活が感傷的に回顧されている。史実に対する批判精神は乏しいけれど、歴史物語という新しい領域を開いた点に大きな意義がある。
・『大鏡』も道長の権勢とその由来を中心に描いた歴史物語で、文徳天皇(850)から後一条天皇の万寿2年(1025)までの歴史が紀伝体で記されている。『栄花物語』とは違って、単なる道長賛美に終わらずに、政争の表面史がかたられていて鋭い批判意識がみられている。
・威子の立后の日(10月16日(11月26日))に道長の邸宅で諸公卿を集めて祝宴が開かれ、道長は実資に向かって即興の歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の欠けたることも 無しと思えば」(『小右記』、原文漢文)。
この歌からは、当日は暦では、十六夜の月が出ていたものと思われている。
参考・引用文献
「詳説日本史」 山川出版社
「日本史B用語集」 山川出版社
「時代の流れが図解でわかる!早わかり古代史」松尾 光編著
「ビジュアル解説 原色シグマ 新日本文学史」 秋山虔・三好行雄 編著